『逆行少年』

短編集『逆行少年(初)』の中の表題作。

もう何をどこまでブログにあげたか忘れてしまったのでダブってたらすんません。

 

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 もうむりだ、と荒い呼吸の隙間から、彼のあまい声がする。
 あまいと言っても高校生男子なのだから、猫が鳴くような、か細く高い声であるはずもない。近いとすれば、弱音なのではないか、と直嗣は思う。苦しさを伴う甘い快楽に、誰にも泣き言を言ったことのない彼が、弱音を吐いている。
「み、さ」
 直海は直嗣のことをミサ、と呼ぶ。昔と同じ呼び方、苗字の岬の方を縮めてミサ。他にその呼び方を使うものはいない。直嗣にはそこまで親しい友人が、直海の他にはいないから。
「なにが無理よ?直海」
 ナオミ、と唇に音を乗せる。直海には直海という苗字の方が似合っていると直嗣は思うので、そう呼ぶ。クラス学年ほとんどの者がそうしているようだ。剛磨、といういかつい文字面や響きが、あまり彼のイメージにそぐわないためだろう。
 真新しい畳の上に、制服姿のままで折り重なっていると、まるで世界に他に人間なんてひとりもいないんじゃないかという気分になる。
 数日前まで部活動にかかりきりだった直海が、夏の大会の敗退と同時に引退することになったので昼日中からこうしている、というのではあまりに短絡的ではあるが。とにかく久しぶりに抱き合って、キスをして、そのうち興奮してきた衣服の下を解放に至るまでまさぐる。これが彼らのセックスだった。

 この町で、直海の存在を知らない者はいない。無論、直海の家そのものが名家なためもある。
 そうでなくとも、直海はいわゆる注目を集める子どもだった。性格はおっとりしていて、口数もすくない。それでも周囲の注視が集まってしまうのは、本当に持って生まれた賦質としか言いようがなかった。直嗣もまた、単純に彼に惹きつけられたひとりに過ぎなかった。大声でわめき散らしたり暴れたり、すぐに弱者を見つけて一斉にそれを攻撃したりする同年代の子どもの中で、直海の落ち着きはらった雰囲気は異彩を放っていた。
 直海の容姿を褒める者は今も昔も多い。実際、よく出来た顔をしていると直嗣も思う。くっきりと美しい二重を描く涼しげな目元であったり、すこしだけ赤味の勝った唇であったり。
 とりわけ直嗣は、鼻が綺麗だと思っている。直嗣自身が自分の鼻をちょっと気に入っていて、先がつんと尖った生意気そうな鼻は、なんとなく意志が強く見えるところが我ながら嫌いではなく、それだけに直海のすんなりと品のいい鼻筋が余計に綺麗に見えて、まずそこが好きだと思うのだ。
 直嗣が、手をやすめずに、かぷ、と、直海の鼻っ柱を軽く噛んだ。歯を立てたりはしない、キスの延長のような戯れ。
「噛、むな」
「直海の鼻、好きでさ」
「っ、あ」
 笑いながら、手の中に握りこんだものを刺激する。切なげに身を捩って、直海がまた懇願する。ミサ、もう、むりだ。
 常日頃、一糸の乱れも見せぬ絹のような完璧さを備えている彼だからこそ、綻びる瞬間はゾクゾクするほど扇情的だった。弾む息を咳払いで誤魔化してしまおうとする彼の耳に直接唇をつけて、また同じことを直嗣が問うた。
「無理って、なに?」
「……」
 達してしまいそうだと訴えているのはわかっている。頬が染まって目元がもったりと潤んで、日頃は直線的な印象を与える直海の輪郭がどことなくやわらかく見える。無駄のない身体つきは子どもの頃からあまり変わらない。一体いつからだっただろう。彼の手足がすらりと長いことに気づいたのは。スッと伸びた首筋がいやに清々しくて、そこに無遠慮に触れていいのは自分だけだと思うようになったのは。
 細い腰に腕を巻き付けて、抱き寄せた。肌はさらっと乾いて心地いい。腹筋あたりに唇をつけて、同時に頬で感触を確かめた。乾いた皮膚と、その奥で蛇動する、濡れたあたたかい筋肉。は、と直海が息を吐く。
 真似事に過ぎない性行為であっても、存在を確かめているだけ言うには生々しい。ただ抱き合って満足するわけではないのだ。
 直嗣の意地の悪い問いへの答えをしない代わりに、直海はふて腐れたような、ぶっきらぼうな物言いで関係ないことを言い始めた。
「……ミサ、最近話し方が変わった」
「話し方?」
「うまく言えない。……でもなんか」
 冷たくなった、と吐き捨てるように直海が言う。何をと直嗣は内心で笑う。自分が直海に冷たくなる筈がない。そんな簡単なことが、もうずっと長いこと伝わってはいないのだ。
「……っ、」
「なおみ」
 丁寧に呼ぶと、それだけで名前の意味は変わる。祈りの言葉ででもあるかのように丁寧に、直嗣は彼の名を呼ぶ。その度に彼の眉間が曇ると百も承知の上で。
 なおみ、ともう一度呼んでから、一際甘ったるい声を出した。
「呼び返してくれよ」
「……」
「早く」
 なおつぐ、と熱っぽく紡がれて、思わずお、と間抜けな声を出してしまった。そっちか、と直嗣がちいさく呟くと、黙って直海の耳がじわりと赤くなった。
「……」
 ああまずい、これはフォローしなくてはと思うのに、勝手に顔がにやけた。
「ちゃう、嬉しい」
「うるさい。もう知らんミサの阿呆」
「怒るな、嬉しいって」

 直嗣もまた、この町内では知らぬ者のいない存在だ。もっとも直海とは、正反対の意味で。
 その不幸は直嗣が「直嗣」という名で役所に届け出され、受理された瞬間に始まった。両親は余所者だ。直嗣はこの町で生まれてこの町で育ったが、小学生にあがった頃に既に己がどういう存在なのかを何となく認識していた。
 直嗣の両親は、知らなかったのだ。この町にとっての「直」の字の意味を。父親の名である直泰から一文字とって、直嗣。ただそれだけだった。
 直は直海のものであり、一族以外がその文字を使うなどとは、してはならないことだった。直嗣は生まれながらにして、はみだし者になった。
 知るか、と直嗣は思う。それでひたすら理不尽なおもいをしてきたが、今はこの一文字を直海と共有していることに、不思議な甘ったるさすら感じている。
 余所者のはずの直嗣は、流暢に地元の言葉を話す。生まれも育ちもこの町で、外には一歩も出たことがない。対して町の中心人物である直海は、標準語だった。生まれてから小学校にあがるまでは東京で過ごし、その後も行き来を繰り返している。本家の後見人だという直海の伯父が、しきりと彼に都会の空気を吸わせたがるらしかった。


 窓も障子も開け放つ。穏やかな海がしずしずとした光を集めていた。この海と、この空を見た者は口をそろえて、ここはいいところだと言う。観光地というほどの観光地ではないが、なんだかいう著名な写真家が好んでこの辺りの建物や海や猫なんかを撮るものだから、それに釣られて都会からちょいちょい人が来る。大体は首に大きなカメラを下げた美大生だったり、聞いたことのない名のアーティストだったりする。
 直嗣の咥えているタバコの煙が、ゆっくり部屋の空気に混じっていく。変えたばかりの畳の匂い、祖母が焚く香の匂い、一部を改築したせいでまだ残っている木の匂い。そのどれもが交じり合って、情交の記憶になる。初めて抱き合ったときに既に直嗣はタバコを吸っていたから、その匂いは常に記憶を呼び起こした。
 勧めても、直海は絶対タバコを口にしない。直嗣もそれはわかっているから差し出すのはポーズでしかない。畳の上にあぐらを崩して、海の方を見たまま直海がまたいつもの話を始めた。
「遠くに行かないか」
「……」
「どうせここにいたって」
 俺もお前も余所者だ。
 ここしばらく、呪詛のように直海がそう繰り返すようになったことに、特別な理由はない。強いて言うなら時が来た、ということか。
 子どもの頃から直海と直嗣はこの町の闇の部分をいやというほど見てきた。ずっと渦中にいたにも関わらず、この町の空気に染まらなかったのは、ふたりがお互いだけを見てきたからだ。
 余所者の子、文字泥棒と罵られて育った直嗣は、性格の問題なのだろう媚びることを知らなかった。常にひとりでいるのは仲間はずれと言うよりは、望んでそうしているのだとすら見えた。生まれながらにして様々な人やものや柵にがんじがらめだった直海には、それはずいぶんと自由で、清潔な存在に見えたのだ。
 直嗣から見た直海もまた、自分の生まれながらの不幸の張本人だとはとても思えない清廉さを放っていた。簡単に言えば、唯一直嗣を口汚く罵ったりしなかったのが、直海だったのだ。
 そういう意味では、ふたりのお互いの感情への解釈にはどこにも齟齬がなく、関係はどこにも不幸がない。とてもわかりやすくお互いを想いあっているのだから。

「明日も暑くなりそうだな」
「ああ」
「大丈夫か」
 からかう風に問われて、直海がムッと表情を固くした。ずいぶん前に一度だけ、真夏に貧血を起こして倒れたことがあったのが、たまたまセックスをした日の翌日だったのをいつまでも茶化されているのだ。
「本当にしつこいぞ」
 ケラケラ笑いながら、直嗣が携帯用灰皿の中に吸殻を押し込んだ。小学生のときの記憶も、昨日のことも、確かに直嗣は同じように話す。カラダが成長して、理解の枝葉が遠くまで伸びるようになって、それでも直嗣が変わらないと感じるのは、この独特の時間感覚のためかも知れない、と直海は思う。
 だから一緒にいると、直海もつい過去の記憶が鮮明になる。


 きっかけが何だったか覚えていない、ということは多分きっかけらしいきっかけなんてなかったということになる。具体的には直海がケガをした、というのがそれに当たるが、心配して直嗣が保健室に駆け込んだ瞬間には、既に事態は動き終えた後だった。
 木工室の整理当番中、クラスの馬鹿がふざけて投げた電動ノコギリの歯が直海の腕をかすめたと聞いたとき、直嗣は一瞬怒りに度を失った。元々好きではなかった奴が、ほんのカスリ傷や、と言い訳じみた物言いをするのがさらに神経を逆撫でした。ぶちのめしてやりたかったが直海の顔を見るのが先だと校舎の階段を駆け下りた。そのときの細部は何もかも覚えている。ちょうど降り出した夕立の水滴が窓に当たった音、すれ違った物理教師の持っていた本の裏表紙、自分の上履きの擦れた傷のかたち、通りすがりのクラスから洩れる会話の内容、通りすがりのバイクの音まで。
 無言で保健室の扉を開くと、腕に包帯を巻いた直海が立っていた。その表情にほんの一瞬焦りをみたが、知らない振りで笠原は?と保健医の名を口にすると、直海は視線を合わさずに答えた。
「もう帰った。教育委員会の集まりがあるって」
「平気なのか」
「表面かすっただけだ」
 一階にある保健室は犬走りに面していて、そちら側は全面ガラスサッシだから部屋は明るいはずだった。それなのに、真っ黒い雲とともに現れた夕立のせいで、室内はひどく不鮮明に思われた。
「あいつだろ、」
「いや、本当に間が悪かっただけだ。別に狙ったわけじゃなし」
 答えがいつもの直海らしくない、と直嗣がかすかに眉を顰めた。お前はまた、と呆れて笑いながら宥められるのを期待していたはずが、今日はどうもおかしい。
「本当に大丈夫か?もしかして深く切ったんじゃ」
「さわ、るなっ」
 机の上の冷却材を取ろうと頭をかがめた直嗣のこめかみと、接近を拒んだ直海の手が接触し、直嗣の顔にごくちいさい引っかき傷を作ってしまった。本当にらしくない。痛みより何より、直海の青い顔ばかりが気になった。
「……悪い、ミサ」
「ええよ」
「冷やそう、ごめん」
「おれは平気」
「でも」
「ええって言ってるやげ。それより何、なんか変だなお前」
 直海が何かを隠すところなど、一度も見たことがなかった。
「なんか言いたいことあるんやろう?」
 じっと真っ直ぐに目を見つめる。普段なら決して逸らしたりしない直海が、ふいと横を向いてしまう。直嗣が二の句を継ぐ前に、震える唇からようよう聞き取れるだけの声が零れた。
「……傷、見てたら」
「……なに?傷?」
 直嗣が繰り返すと、直海がさらに青褪めてうつむいた。まるでそこに罪が隠れているのだと告白するように、包帯の上から己の傷口をぎゅっと押さえつける。
「、ばか、そんなこと」
 慌てて止めようとすると、何を誤魔化そうとするのか余計に強く腕を掴む。
「…な……めたく、なって」
「え?」
 貧血でも起こしかねない顔色は、夕立のせいばかりではなかった。直海はいよいよ紙のように白い顔を遠くへ向けて、途切れ途切れ苦しそうに言葉を捻り出した。
「……傷?」
 直海の言葉の意図が読めず、ただ直海が精神的にひどく追いつめられているのだろうことは想像に難くなかったので、ついあやすような声が出た。
「傷、舐めたのか?」
 笠原の治療は雑なことで有名だが、さすがに消毒くらいはきちんとしているだろう。
「…おま、えが」
 なめてくれたらいい、って。
 直海は確かにそう言った。
「……すまん、俺……」
「直海」
 目を逸らして逃げようとする肩を掴まえた。こんな風に、うしろめたさを明らかにする直海の姿などついぞ見たことがない。きっと、直嗣が自分を軽蔑していると、そう思い込んでいるに違いなかった。
「じっとして」
 どう言葉で解きほぐすより、これが効果的だと判断した直嗣が、包帯の上に手を伸ばす。きつく掴んだままの直海の手に触れ、ゆっくりそこから引きはがした。
「舐めたのか、自分で?」
 訊ねながら、巻き直された包帯をするすると解いていくと、まだ乾いていない傷口が露わになった。薄いガーゼが一枚、白い軟膏の上におざなりに貼ってあるだけのそこは、確かに直海の言うとおりかすり傷ではあった。
 あ、と今にも泣き出すのではないかという気弱な声が洩れた。直海の口からこんな声が出るのかと驚きが先立つ。弱音のようだ、と直嗣の胸が疼く。
「見せて」
 よく日に焼けた直海の肌の上の、まだ濡れて柔らかいままの傷。この傷の上を、直海の舌が這ったのだ。恭しく、直嗣がその傷に唇を当てた。ゆっくり、沁みないようにと配慮しながら舌先を伸ばして、傷をなぞっていく。
「あ……!」
「俺に、こうして欲しかったんやろう?」
 あの瞬間に、直嗣の心は決まっていた。
 おまえの、のぞむことを、すべてしてやる。

 雷が鳴る前の、冷えた風が神社の中を通り過ぎる。直海はまだ立ち上がれずにいた。
 いつも、来てから思い出す。ここに来ると必ずこうなってしまうのだということを。
 このところ、昼を過ぎると決まって激しいにわか雨が来る。だから午前中に部室に少しだけ顔を出して、さっさと帰ろうと思っていたのだが。
 写真好き同士で撮影旅行に来てるんです、と3人連れの女の子に声をかけられて、直海は港に足止めを食らってしまったのだ。いかにも都会の専門学校の生徒といった風情で行儀よく、たまたま撮ったスナップ写真に直海が写り込んでいるのを、そのまま作品として使わせて欲しいという申し出だった。ずいぶん遠くにシルエットとして写っているくらいだから断られるまでもないと承諾し、話はすぐに終わったがそこから直海は離してもらえなかった。このあたりの人なんですか、学校は、オススメのお店は。どうやら旅慣れているらしい彼女たちは「地元の人との交流」に明らかな興奮を覚えていて、なかなか離脱の機会を窺えなかったのだ。
 やはり帰宅が間に合わず、途中で降り出した雨粒を避けて神社へ逃げ込んだ。社としてはちいさいが、樹齢数百年の御神木が雨から隠してくれる。
 ここにはいつも、逃げこんでいる気がする。目に見えない何か、追いかけてくる何かに怯えたときには人知れずここに来て、静かに座っている。するとだんだん身体が冷えて、動けなくなるのだ。
「……、……」
 拝殿の前に座り、両手を膝の前に祈るように合わせて、体の震えが治まるのをただ待った。静かに、静かにしていれば大丈夫。冷たくなった血管が、徐々に熱を取り戻してくる。足が少し動かせるようになった頃には、きっと。
「……いるのか?」
 ああやっぱり、と直海が笑う。ここでこうしていると、必ず直嗣が迎えに来てくれる。助けて欲しいと心がきりきりするとき、不思議なくらいのタイミングで直嗣が現れて、手を差しのべてくれるから。小さい頃から、ずっとそうだった。
「ミサ、」
 呼べば、傘をささずに手に持った直嗣の影が、雨の向こうから近づいてくる。心からホッとして、直海が綺麗な笑顔を浮かべた。
「ミサ」
「っと、そこか。何よ、また貧血か」
「もう大丈夫なんだ、大丈夫」 
 そこで、雷雨に追いつかれた。激しい稲光と、雨の音の中でただぼんやりと、ふたりだけでいる世界のことを考えた。
 遠くへ、行こう。ここに居たって、俺もお前も余所者だ。
 ふたりだけで一から。何もやり直す必要はない、新しく作っていけばいいだけだ。
 直海が伸ばした震える手を、直嗣がしっかりと握りしめる。優しい直海、可哀想な直海。お前が恐れて抗っているものは、きっと俺の手の届くものじゃないんだろう。誰からも愛される子ども、自分とは何もかもが違う子ども。そんなに恵まれているのに、お前は小さい頃からずっと何かに追われてる。
「きっと俺らなら、今と変わらないでうまくやれるよ。一緒に行けば」
 だから、頼むからミサ。そう言って懇願する直海を、直嗣は静かに見ていた。
「治ったか?」
「うん、もう平気だ」
 どこか遠い街に出ても、きっと直海は誰からも注目される。都会でも注目を集める。ここと何も変わらない。優しい直海、可哀想な直海。変わらないのはたぶん俺だけ、俺だけが変われないんだ、と言ったらどんな顔をするだろう。
「一緒に、行くか」
 本当か、と直海が無邪気に喜んで、思わずといった風に直嗣に抱きついた。優しい直海、可哀想な直海。どこかの知らない街で、お前はひとりで変わっていく。変われない俺の残骸を、いつかお前の指は拾ってくれるだろうか。


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