3/3J庭46参加&新刊告知

めっちゃ間が開いてしまった。

イベント参加告知です。

2019年3月3日Jガーデン46

【A2-3ホール た20a はやしゆき】

です。人外スペースです。なんか見た目が超うつくしくて中身が煩雑な文庫本が色々あるので、是非覗きにきてください。

 

新刊『カナリヤと六本指』(上)

人外的なものが普通に出てくる世界観ですが、

ある意味最強攻め×最弱受けの話で、大変恐縮ながら終わってません。

次回に続くになってしまいました。続きが気になって頂けるかが勝負。

 

続きからサンプルです。

今回の本が全体の半分くらいで、更にその半分なので四分の一くらいです。

ご興味持って頂けましたら是非。

 

表紙はこちら

 

『カナリヤと六本指』

冒頭サンプル(サンプル部分にRは含まれません)

******


 それは文字通り、おれの目の前で崩れた。
 痛みはない。当然と言えば当然だ。だっておれの右腕は、目の前で崩れてなくなってしまったのだから。
 久しぶりの帰宅なのに、まるでそれを拒まれたみたいでおれは少しだけ悲しくなった。

 そもそも父が帰ってこいと言った、というのは怪しい。
 母がそういう風に言っているだけで、実際父は自分の顔など見たくないのに違いなかった。
 昔からおれは、父の理想に『あと少し』届かない子供だった。まったく届かなければきっと父はおれを叱責することが出来た。でもそうではなかった。おれにも悪気があるわけではない。努力した。父の期待がわかるから努力したが、それは父の理想にあと少し届かない。本当に死ぬ気で努力したのか、と言われてしまえば何も言えなくなるが、おれなりには必死だった。
 結局おれは剣道でも学業でも父の望む結果を出せず、家を離れて県外にある寄宿学校に通うことになった。正直、それ自体はおれの心には良い作用をもたらした。まず、己を知ることが出来た。正確に言えば、己が世間からどう見えているのかを、だ。
 御津家は地元でこそ大きな家だったが、学校のあるK県に於いては、そもそもおれの地元は田舎扱いだった。田舎から来た物知らずな坊ちゃん、というレッテルを最初に誰が貼ったのかはよくわからない。が、新生活が始まって数日でおれは何人もの学生にミツボンとかミツボウとか言われてからかわれた。でも、正直そこまで悪い気分にはならなかった。アダ名というものをつけられたのが初めてだったからだ。
 初めての学校。寄宿舎での生活。皆心のどこかに不安があるから、無意識に攻撃する対象を探している。ミツボウはまずその候補に挙がった名前だった。
 それでもおれの学校生活は楽しかった。からかわれはしたがそれがそのまま虐めに発展したわけではなく、寧ろそのからかっていた連中の中から友達も出来た。気の合う奴合わない奴というのはどこにでもいるし、何よりおれは学校において、何の心配もせず『頑張る』ことが出来た。抜群に成績がいいわけではなかったが、授業を真面目にききノートもきちんとつけるおれには友達に勉強を、特に古文と歴史は教えることが出来たし、逆に苦手なものは助けて貰えた。テストの結果が良ければ喜び、成績が下がればがっかりもした。
 それは部活や運動でもまったく同じことで、経験がある分おれは剣道部の先輩からは可愛がられた。環境のせいなのか精神的な問題なのか、以前は試合の前になると必ず体調を崩していたのもなくなって、二度の練習試合を経ておれは上級生に混じって練習することを許された。結果を出せる喜びにおれは酔った。少なくとも、無言の父を相手に期待に背き続けて勝手に傷つく日々よりも、ずっと楽しかった。
 あっと言う間に一年は過ぎ、二年目の夏休みが訪れた。おれの学校生活は変わらず順調で、だから『お父様が帰って来いと仰っている』という母の言葉をおれはあっさりと信じた。帰省をするか否かも迷っていたが、寄宿舎に留まる友人は少なく、また帰ってこいという言葉に単純に嬉しさがこみ上げて、帰ると言ってしまったのだった。
 父がおれの帰宅を喜ばないだろうということに、自宅の門の前に来てやっと気がついた。おれのこういうおめでたい頭こそが、父には疎ましいのかも知れなかった。
 ただ、今起きている事態はそんなおれと父の柵とはまた全く別の問題であると思われた。

「あ……」
 間の抜けた声を出しながら、おれは自分の手がなくなるのを見ていた。痛みはなかった。腕そのものがないのだから、当たり前か。とにかく門戸に触れたつもりだったおれの右手は指先から砂みたいに砕けて、肘までがなくなってしまった。
 ない。今まであったものがない。
 たったそれだけのことだが、魂を抜かれでもしたかのように全身に力が入らない。うまく言えない何かが体に食いついたような、一部がなくなって軽くなったはずの体がひどく重かった。
 ない。
 ちぎれたとか折れたとか、切り落とされたとか、そういうのとも違う。ないのだ。
「なくなった」
 声がした。
 おれの心の声、かと思ったがそうじゃなかった。
「嘘だろ、マジで体が崩れるのかよ? そこまで弱くて今までどうやって生きてたんだ」
 呆れたような、それでいて少し優しい声だった。その声は優しいまま、こう言った。
「こりゃいいや」
 何がいいのだろう。この声が誰のものなのか、状況は相変わらずまったくわからない。でもおれの胸は今の一言ですっかり打ちのめされてしまった。何がいいって言うんだ。おれの腕が、体の一部がなくなってしまったっていうのに。
「これなら絶対に見逃さないで済むぞ。まったく、大した奴がいたもんだ」
 泣きそうな気持ちでいるおれを余所に、声はうきうきした調子で喋り続けた。おれはどうしてかその声の主の顔を確かめることが出来ずにいて、突然目の前に差し伸べられた手がますます思考を遮った。
 その手には、中指が二本あった。でも指が長くて爪の揃った、綺麗な手だった。
「おい、俺に掴まんな。これ以上なくなりたくねえだろ?」
 声の主の手は、俺のなくなってしまった方の手に向けて差し伸べられていた。今はこの手を掴むしかない。そう思って、残っている左手を伸ばそうとすると。
「そっちじゃない、反対の手だ」
 そんな意地の悪いことを言われても、喉から声が出てこなかった。混乱していて、何を言い返せばいいのかわからないのもある。
「大丈夫だから、信じろ。早く」
 急かされて、自棄になって伸ばした手(正確にはおれの手はないんだから、伸ばしたつもりになっただけだったけど)が、しっかりと握り返される感触に包まれた。
「え……」 
 ようやく出た声は、やはりかなり間が抜けていた。だって、ないのに。でもそれはどう考えても手を繋いだ感触だし、そのままぐいと引っ張られておれは少しよろけた。ないはずの手を引かれる、なんて。
「とりあえず、今はここを離れた方がいい」
 繋いだ手の先にいるのは恐らく男、おれと同じくらいの背格好で、もう真夏だというのに軍服のような立て襟の濃紺のコートを着ていた。学生には見えない。
 知った町のはずなのに、どこをどう歩いたのか見当もつかなかった。得体の知れない人間に、ないはずの腕を引かれて早足で歩くとあっと言う間に息が切れた。はあはあと深く呼吸をしても、コートの人物はおれのことなどまるで意に介さず歩き続ける。
 ようやく一軒の建物の前で立ち止まったとき、おれはその男の顔を見ることが出来た。
 前髪をさらりと流してあってちょっと気障な感じだったけれど、拍子抜けするような優男だった。
「お前、あそこの家の子供なのか」
 確かにさっき聞こえた声と同じようではあったけど、なんだか男は打って変わって不機嫌そうな低い声でそう言った。おれが驚きと人見知りで何も言えずにいると、男は繋いでいた手をぶんぶんバカにしたように振りながら、外見にそぐわない荒い言葉で続けた。
「おいガキ、聞こえねえのかよ。挨拶くらいしな」
「お、お前こそ!」
 おれは思わずその手を振り払って大きな声を出した。一度隻を切ってしまうと、声は喉から溢れてきた。
「お前こそ誰だ、怪しいやつ! そっちから名乗れ!」
「へえー。そんな声出せんの。ずっと泣きそうな顔してっから性格もメソメソしてんのかと思ったら案外生意気じゃねえか」
 男は目を丸くして、というか、元々そういう顔立ちをしているらしかった。ぱっちりとした二重の大きな目。妙に肌の質感がつるんとしている。たぶん俺より年上なんだろうけど、いわゆる童顔というやつなのだろう。綺麗な顔と言えるはずなのに、とにかく胡散臭い。
「……」
 じっとこちらを見てくる様子は、まるで玩具としていたぶれる獲物を見つけた猫のように好奇心丸出しで、おれはと言えば背中に厭な汗をかいていて、しばらくは己の状況すら忘れていた。まるで鳥にでもなった気分を味わった。
 男はしばらくおれを眺めてから手を離し、面倒くさそうに挨拶らしきことを口にした。
「久久理椎輔。ここの事務所の所長、になるのかな一応」
 ここ、と男が顎をしゃくった先に視線をやる。古びた建物の入り口は妙に幅が狭く細長くて、二階建てなのにも関わらず高くそびえる塔の始まりのようにすら見えた。
「……事務所?」
 薄暗い階段の上をおれはそっと伺った。ドア以外には何も見えない。怪しい以外の何でもない。誘拐とかよりは、このまま何かの怪しい実験台にされるんじゃないかと、子供の頃読んだ怪奇漫画のような妄想が浮かんでしまったが。
「困ってるんだろ、その手」
 男の声で、我にかえる。そうだ、今は何よりこのなくなった手のことを考えなくてはいけない。目の前にないもののことを今は。
「……あんたは、何が起きたのかわかるの?」
「わかる」
 即答されておれは息を飲んだ。男の声の調子が余りにも、当たり前のことを答えるような、慣れた道を訊かれたときの返事の声のようだったから。今のこのわけのわからない状況に光が射した気がして、おれは先に立って階段を上がる男の背を追って、足を踏み出した。ところが。
「あれ、知りたいのぉ?」
「……!」
 くるりと振り返った男の顔は一転ニヤケていて、何というか性格の歪みとかがにじみ出ている笑顔だった。おれは思わず本音を口にした。
「……胡散臭い。怪しい」
「可愛くねぇガキ」
 こう言ってはなんだけど、おれは今まであまり可愛くない、と言われたことがなかった。それはおれが可愛いからという意味ではなくて、可愛くないと言われるような態度を意識してとらないようにしていたからだ。父に失望されないように、母を悲しませないように。その延長で学校の先生や近所の大人や、果ては友達にだって極力穏やかに接する癖がついている。そのせいかどうかはわからないけど、同世代に比べると大人びているとか落ち着いていると言われることも多かったから、『可愛くねぇガキ』なんてことを見知らぬ大人に正面きって言われると、ショックを通り越してもはや新鮮だった。
 角度の急な階段を上がりきると、くすんだ水色のドアに行き着いた。ドアの上半分は濁り硝子がはめ込まれていて、看板のひとつもつければ確かに立派な事務所になりそうではあった。だが今は看板も何もなく、怪しいという印象は拭えない。
 中は表から見えた印象の通りに狭苦しい、でも雑多な風ではなく、きちんとしていた。ここで仕事をしている風ではない。この男は、ひとりでここに住んでいるのだろうか。室内で冷房機が使われている気配はない、それなのに空気はひんやりとして感じられた。
 疑問に思うことは山ほどある。でも、この部屋から受ける印象は目の前の男のそれとぴったり重なっていて、すなわちそれはなんというか、この場所だけで自己完結していて、外からのものを拒んでいるみたいな空気に満たされていた。
 部屋は改めて見ても狭かった。狭いというか、完全にひとり用なのだ。おれという異物が入ってきたことで、狭く感じるように出来ている。シンプルなテーブルと椅子がひとつずつ。部屋の奥に扉がひとつ。テーブルの上にカップがひとつ。
 落ち着かないけど、何より落ち着かないのはやっぱり右手だ。右肘から上、肩の辺りを、残っている左手でそっと押さえた。不安を抑えるつもりでしたことだったのになくなったという実感が伝わってくるようで、胃のあたりがじくりと痛んだ。
「本当に、なくなってるな」
 久久理と名乗った男は、おれの消えた腕のあたりをまじまじと見てそう言った。
「でも、俺の手は掴めた」
「……?」
「つまり、そーゆーこと」
 全然わからない。説明が雑過ぎる。 
「これは……怪我?」
「怪我じゃねえよ。痛くないだろ」
 確かに痛くはない。でも、何度確かめてもやっぱりなくなっている。
「じゃあ、なんで……?」
 んー、と久久理は自分の髪をぐしゃぐしゃとかき乱してから言葉を続けた。
「過敏体質って言やあいいのかな。普通の人間なら平気でも、お前はダメなもんに触っちまったっていうか」
「触った……?」
 一体おれが何に触ったと言うのだろう。おれはただ、実家の中に入ろうとして門に手をかけただけだ。何を言われているのか理解出来ずに眉を寄せていると、目の前がぱっと明るくなった。ライターの火を点されたのだと気づいて、おれは反射的に顔を引いた。
「わっ」
「これ、触れるか?」
「……火? 触れないよ」
「まあ、普通の人間なら、手ちょっと近づけて熱っ! てなってすぐ引っ込めるだろ」
「引っ込めるよ。熱いし」
 何を当たり前のことを、と疑問を挟むより先に、久久理はデスクの上の使った形跡のない灰皿を引き寄せ、その中に入っていたメモのような紙屑に火を移した。それはメラリと一瞬大きくなって、黒い煤のみを残して崩れた。
「でも、お前の体は言ってみりゃ紙、それも薄ーい半紙で出来てるよーなもんだから」
「半紙」
「もう、こうして軽く炙られたら手遅れで燃えてなくなるってことだ。そんでちなみに俺は逆で」
 そう言うと久久理はコップを取り上げ、灰皿に残された黒い煤の上から水を注いだ。シュッと小さい音がして火の気は完全に消え、立ち上っていた煙もやがて霧散した。
「近づくと、火の方が消える」
 銀色のライターを手元で弄ぶ久久理の丸い目が、一瞬冷たく光ったように見えて、おれはぞっとしてしまった。
「関係性はわかったけど……その、火、って、なんのこと言ってんの? おれの家別に、火事とかじゃなかったし」
 久久理の目の色は再びさっきの、人をバカにしているのか何なのかわからないものに戻った。しばらくその目でおれを吟味するみたいに見ていたが、一言短く言い放った。
「よくないもの」
 その声は何だか、空間に薄く張っていた氷をぱりんと砕いてしまったような、静かにものを壊すような声だった。
 よくないもの、とは何だろう。そのよくないものが、おれの腕を奪っていったんだろうか。心臓が妙に高鳴った。
 でも久久理はそれについては説明せず、代わりに右手の指を一本立てて見せた。その時やっと思い出したが、さっきは確かに中指が二本あったはずだ。でも今、目の前にある手には五本しかない。疑問を差し挟む前に、久久理が言葉を続けた。
「そこでひとつ提案だ。お前の身の安全が確保出来て火事が防げて、しかも俺の役に立てる方法がある」
「は……あ?」
 あんたの役に立てるってなんだ、何でおれがあんたの役に立たなくちゃいけないんだという憤りが過ぎて、言葉が出てこなかった。なんて上から目線だ。
「今言った通り、おれは体質的に近づいただけでこのよくない火を消してしまう。ただ、どこで燃えてるのか全然探知出来ねえんだ」
「そ、そんなバカな話ないだろ。火が燃えてたら誰でも気づく」
「お前だって気づかなかっただろ」
 即言い返されて、おれは口を閉ざした。それは確かにそうだ。腕がなくなってしまった今も、おれは何が起きたのかすらわかっていない。何かに触れてしまったということすら気づいていなかった。
「な、そういうモンなんだ。そういうものが『ある』ってわかってても、実際どこにあるのかがわかんなきゃどうすることも出来ない。そこで、お前の特異体質が役に立つ」
 特異体質。それも言われるのが初めてだった。戸惑うおれに久久理は片手を差し出した。何を求められているのか察して、おれは『右手』を伸ばした。と言っても、伸ばしたつもりになっただけだけど。ただ、久久理の手に握られると、おれの右手は戻ってきた。そこに手があると実感出来てひどく安心した。でも。
「お前の体は『火』に敏感だ。これだけの反応が目の前で出りゃ、さすがに俺も見落とさない」
「どうしろって言うのさ」
「俺は人に依頼されて、この辺りの火元を探してる。探し出すことさえ出来たらあとは早い。お前、しばらく俺と一緒に行動しろ。いるだけでいい」
 いい話だろと言わんばかりの調子で、久久理はそう言っておれの肩をぽんぽん叩き、右手を離した。途端にそこから不安の渦が流れ込んでくるようで、おれはその感覚に耐えながら何とか口を開いた。
「火、って……よくないものって、何? おばけ?」
「逆にきくけど、おばけって何?」
「何って……だから」
「みたことあんの?」
「ない、けど……」
 久久理は呆れた、という意志を示すためにおれに向かって両手を広げてみせた。ひどくバカにしている。でもおれはどちらかというと、この手とはおれの右手を繋ぐことが出来るという方に気を取られていた。この手がある限り、右手がなくなったという事実を否定出来る気がして、そこに縋りたかったが、まさか子供ではあるまいし初対面の相手にずっと手を繋いでいて欲しいとは言えない。
「まあとりあえずお前は半紙なんだから、火から最低でも一メートルくらいは離れてないと、燃えてなくなっちゃうから注意しろ」
「……でも、近づかないと反応出ないんじゃないの?」
「ちょっとずつ理解してきたな。まるっきりのアホでもないのかな」
 そう言って久久理が笑う。笑うとすごく綺麗な顔に見えた。ただ言ってることはすごく失礼なのと、残念ながらおれは自分が事態を理解出来ている気はしていなかった。
「俺が傍に居れば守ってやれる。傍にいるだけでいい」
 ……何だろう。
 この、熱烈な愛の言葉みたいなの。
 そういう意味じゃないってわかっていてもむず痒い。
「何もしなくていい。むしろ何もすんな。頑張るとかそういうのもナシ、簡単だろ?」
 俺はどう返事をしたらいいのかわからなくて、口の中で言葉を探したけど何も見つからなかった。
 ずっと一緒にいろと言うのか。滅茶苦茶なことを言っていると、わかっているんだろうかこの人は。その火元とやらがわかるまで、おれはこの変な男と一緒にいなくてはならないのか。
「……、わっ」
 突然両手でおれの頬っぺたを挟んで、久久理がすごい至近距離でおれの顔をじぃっと覗き込んできた。
「まずお前、ちょっと目が暗いな」
「目が……くらい?」
 黒い、の間違いじゃないかと思ったけど、そうではないらしい。久久理は淡々と話を続ける。
「そう。目も癖があって、まあ性格とか性質に直結するんだけど。お前のは元々色のないつるっつるの水晶みたいなやつだから、見たものがそのまま染み込む」
「……、……?」
「暗いもの見るなよ。暗い場所もだ。明るいもんだけ見てろ」
 ダメだ、どんなに頭を柔らかくして話を理解しようとしても、久久理が何を言っているのか全然わからない。もはや質問を返す元気すらなくなって、おれはただ呆然と久久理の顔を眺めていた。
「あ、俺の顔見てんの? それは正しいな」
 そう言って久久理がニッコリ笑う。それがとどめのようにのし掛かってきて、体がぐったりと重くなって、おれは深く俯いた。
「へこんだって仕方ないだろ。それより安心しろ、いい話がある」
 そうではなかった。俺は急激な眠気に襲われて、顔を上げる力すら残ってないだけだった。
「お前……まさか」
 家に帰りたい。実家に帰って、自分の部屋の畳の上で大の字になって昼寝をするのが楽しみだったのに。こんな、見ず知らずの人間のベッドなんかを間借りして、背中を丸めて眠らなくてはならないなんて。急に情けない気持ちがこみ上げて止まらなくなって、おれは毛布に顔を埋めた。他人の家の寝床のにおいがする。寄宿舎のとも実家のとも違う。
「おい、調子に乗るなよガキ。なに横になってんだ俺のベッドで寝ようなんて百万年はえーぞ……起きろ、起きて話きけ、まだ続きが」
 久久理の口調は、今日一番焦っているように聞こえた。肩を乱暴に揺さぶられたけど、体が鉛みたいに重い。瞼が持ち上がらない。なくなった腕のこともだんだんどうでも良くなってきた。ずっとどこかが冷えきってた体がどんどんあったかくなってきて、手足が重くなって意識は遠のいた。
 真夜中、だったろうか。ぎしりと体が揺れる感覚で、一瞬意識が浮上した。続いて体に、背中のあたりにあたたかいものが触れた。人の体温だ、と思った。
 右手が動く気がした。そっと、動かしてみる。ああ、ある。前と何も変わらない。拳をぎゅっと握ってみたら、安心感とともに入らなくなっていた力が戻ってきた気がした。ああやっぱり、きっと夢だったんだ。それはそうだ。人間の体が消えてなくなるなんて、あるわけがない。何の心配も要らない。きっと目が覚めたら全部元に戻ってる。
「本当、ふざけた話だ……」
 うっすら聞こえた声に思い切り頷きたい気分だった。

 

******

 


 まったく以てひどい目に遭った。
 おかげでこっちはロクに眠れなかったって言うのに、このガキは人のベッドを占領してまだ寝くたれている。こんなに狭苦しいのに、その安らかな寝息は何なんだ。俺独り用のベッドなのに、俺じゃない奴がそこで熟睡してるなんて。
 そもそもこの部屋に他人を入れる日が来るとは思ってなかった。俺の部屋は個室だ。完全に独りで使うための部屋なのに……と言ってもまあ、俺が来いって言ったんだけど。ただ、今回みたいなのはレアケース中のレアケースだ。
 納得いかないばかりだが、とにかく今のうちに必要なものを抜き取ってしまおうと、俺はこいつの荷物を勝手に開けた。几帳面に使われている鞄の中には着替えと洗面用具なんかが一式。寄宿学校からの帰省だと言っていたが、実家になんて身ひとつで帰りそうなものなのに、まるでどこかに旅行に行くような、他人行儀な荷作りだった。
 それから俺は貴重品を包んであるらしい巾着袋を引っ張りだして、財布や帰りの切符といった貴重品をよけて、学生証を捜し当てた。
 御津櫻之進、とは恐れ入る。随分大層な名前が書かれた学生証をしばらく四方から眺めて、俺はそれを自分のポケットに仕舞った。
 こんな体質の奴が実在するとは思わなかった。にわかには信じられないが、この目で実際に見たのだから信じるより外はない。
 近づいただけで、あんな風になるなんて。
 文字通り櫻の花弁のように儚く、砂の崩れるように綺麗に、こいつの腕は消えてなくなった。ただ、これが見えるのは俺とこいつ自身だけのはずだ。他の人間の目には、こいつの腕がなくなったとは映らない。しかしそれを教えてしまうと、こいつはあの家に帰ろうとする可能性が高い。
「……」
 すうすうと寝息が聞こえる。こんな状況でこんな風に眠れるあたりはまだ子供だ。そのくせどうやらこいつは、この腕のことをどうしても家族に知られたくないらしい。それはそれで都合が良かった。
 実家だろうが何だろうが、今あの家にこいつが近づくのはまずい。というか、どうなるか保証出来ない。
 普通に考えるなら、火元はあそこだ。
 よくないもの、は、あの家にいる。
 だが、他と件とは繋がっていないとも考えられる。恐らく俺の依頼人はあの家のことは知らない。人の体を崩してしまうほどの力があそこに蟠っているのに、誰にも認識されていない異様さを考えるべきなのか、それとも。
 とにかく、寝不足でぼんやりした頭を覚醒させるためにコーヒーを淹れた。コーヒー豆を挽く電動のミルで結構な騒音を立てたのに、あいつはまだ起きてこない。カップを片手にベッドに歩み寄って、少し日に焼けた髪をひと房掴んで引っ張ってやった。
「おい、いい加減起きろ」
「いたっ……」
 ウウンと御津は唸り、首を小さく横に振って身を捩った。寝ぼけている表情と前髪が汗で額に張り付く様が幼くて、まるで子どもみたいだ。もう一度髪を引っ張ってやると、御津はすんなりと通った鼻筋にシワを寄せて、恨みがましい目で俺を見た。
「……」
 のろのろと起きあがった御津は、自身の手を見て(正確にはないから見えていないが)深い深いため息を吐いた。夢ではなかったのだと、改めて絶望した様子だった。
「人のベッドで熟睡しやがって」
 腕組みして見据えてやったが、御津はゴソゴソと身をよじっているばかりで全然こちらに注意を払わない。
「……気持ち悪い」
「具合悪いのか」
「あ、そうじゃなくて。汗かいた」
 そう言うと御津はひょいとベッドから降りて、着替えやなんかを引っ張りだした。俺が勝手に鞄を開けたことに気づいた様子はない。タオルまで持参してるのには感心した、というか幸運だったと思った方がいい。この部屋にお前に貸す分のタオルはないし、こういう特殊な状況でさえなければ、俺のベッドで他人が寝汗をかくなんて絶対許さない、絶対にだ。
「風呂貸して」
「風呂なんかない」
「ないの?!」
「シャワーならある。不潔なわけあるかこの俺が」
 親指でシャワー室を示すと、失礼な子供は黙ってとことこそっちへ向かっていった。本当、特別だからな今だけだからな。返す返す、この部屋は俺が使うためだけにある部屋なんだからな……と、考えている間に、恐ろしい早さで御津はシャワーを浴び終えてシャツと短パン姿で出てきた。
「ちゃんと髪拭け。床濡らしたら即追い出すぞ」
 言われたことはちゃんとやるようで、御津は素直にシャワー室に頭をつっこんで、髪をわしわしと拭いた。こうして眺めているとごくごく普通の真面目寄り体育会系高校生に過ぎないのだが、こう見えてこいつは特異な『体質』を持っている。俺とは真逆の体質を。
 俺は椅子に腰掛けて、当座の問題の改善に勤しむことにした。
「まず名前がダメだな。弱い」
 事実を言っただけなのに、御津は盛大に傷ついたという顔をした。表情が大きく変わるわけではないけど、気分みたいなものがもろに目元に滲み出してしまうタイプらしい。
「そんなの……椎輔、だってそんなに強そうな名前じゃないじゃないか」
 生意気に言い返してきやがる。いつの間にか俺の下の名前覚えてるし。
「別にお前の親のセンス悪く言ってるわけじゃねえんだよ。そうじゃなくて、何て言うか防御的に弱い名前なんだ」
「防御」
 こいつ、何でも復唱すんのクセなのか。良く言うこときく犬みたいな雰囲気ある割に、自分のペースは崩さない。ペコペコしそうでいて、そんなことは全然ない。
「櫻の代わりに、もうちょい強いもの。今のお前には花弁より刃物が要る。刃、ええと……剣、太刀がいいか。でかい方がいいな」
 いい案が思い浮かんだのでさっきポケットに仕舞い込んだ学生証を取り出して、俺は御津の名前のページを開いてその上にボールペンで二重線を引き、横に『太刀之進』と新しい名前を書いた。
「あーっ! おれの学生証に!」
「お前ね、体全部なくなっちゃったら学校どころじゃねえんだぞ?」
「ひでえ、ペンで書いた!」
 御津は泡を食った様子で駆け寄ってきて、俺の手元から学生証を引ったくってもう一度悲痛な声を上げた。
「あー!」
「うるせーよ。お前のこと守るためなんだから、我慢しろ」
 俺の言葉なんかまるで無視していた御津が、じっと学生証に視線を落として固まった。
「たちのしん」
 御津が声に出してそれを読んだ。うん、響き的にもちょっと固くて良さそうだ。
「……何これ?」
「お前の名前に太刀を足した。気休め程度だけど、ないよりマシだ。少しでもお前を強くというか、よくないものに染まりにくく見せる」
「……」
 御津はしばらく、手元の学生証と俺の顔を交互に見比べてから、こう言った。  
「字が汚い」
「泣かすぞお前」
「だってこういうのって、言霊とかそういうのでしょ。達筆な方が効き目がある気がするけど」
「わかったようなこと言いやがって……」
 その後、御津が空腹を訴えだしたので、外へ出て近くのレストランへ入った。近くを通りかかったことはあったけど、入店するのは初めてだった。
 卵とベーコンの典型的朝食のセットを残った片手を使って一心不乱に食べる御津を、俺は信じられないくらい不味いコーヒーを舐めながら眺めていた。そういやこいつ昨日も何も食べてなかった気がする。空腹を訴える余裕もなく眠ってしまったんだったか。
 フォークを動かす手を一瞬止めて、御津が俺の方を見た。
「あんたは食べないの?」
「朝は要らない。ていうか、要るときしか食わない」
「よくそれで動けるなあ」
 呆れたような、感心したような声を出して御津はまた食事に戻った。男子高校生なんてもっとがっついて飯食う感じかと思っていたが、どうやらこいつはきちんとしたお育ちであるようで、食べ方は綺麗なものだった。
 一通り腹を埋めた御津はきちんと口を拭って、妙に真っ直ぐな視線を俺に向けてきた。 
「それで、おれは何をしたらいい?」
 よく寝てスッキリしたせいなのか、御津は昨日の捨て犬みたいな顔はしていなかった。ショックが少し緩和されたのか、例の名前のまじないが効いたのか、まあとにかくこうして見ると御津はなかなか凛々しい顔つきをした少年だった。何だか目が妙に澄んでキラキラしてるもんだから大人しい犬っころ、みたいな印象になってしまうが、確かに剣道着なんか着せれば、それなりに若武者みたいに見えないこともなさそうだった。
 そんな奴が何をしたらいい? なんて訊いてくるのに申し訳ない気すらするが、やることはいつもと変わらない。
「ウロウロするだけ。そうだなぁ、今日は」
 言いながら俺は明都さんから貰った地図のコピーを取りだして、本当にテキトーに指さした。
「この辺、歩いてみるか」
 会計を済ませてレストランを出て、大体の感じで地図の地域を目指して歩いた。御津は財布を持ち出してきて金を払おうとしたが、俺は既にその中身も把握済みだったので適当にあしらった。それでも、他人に理由もなく奢られる訳にはいかないとかなんとか、しつこく生意気なことを言ってきたのでちょっと脅かすことにした。
「お前、その乏しい懐具合であと何日過ごさなきゃいけないかわかったもんじゃねえんだぞ。ホイホイ使わないでとっとけ」
「何で中身知ってんの……覗いた?」
「いいから。かさんだらちゃんと経費としてお前ん家に請求するから気にしなくていい」
 と、そこまで言って俺はある事実に気づく。
「そういやお前、実家に帰省するとこだったんだよな。連絡しなくて大丈夫か? 俺誘拐犯扱いされんのやだぞ」
 俺が見かけたときは本当に帰り着いたその瞬間だったらしいから、幸か不幸か、例の衝撃的な人体消失シーンを目撃したのは俺だけだった。こいつの家族は見ていない。それにしたって、電話のひとつも入れたがっても良さそうなものだ。
「……もし俺が本当に誘拐されたとしても、すぐには通報とかしないと思う、うちは」
「何だよそれ?」
「あんまり騒ぎになるの嫌いなんだ、父さんが」
 そう答えて御津は視線を泳がせて、分かりやすく口を閉ざしてしまった。家庭なんてどこも複雑なものなんだろうが、パッと見何の悩みもなさそうな顔してるくせに、なかなか過剰な反応を御津は見せた。果たしてその辺りがあの家の『火元』なのかどうかはまだ定かではないが。
「まあ、じゃあ一応俺の方からそれとなーく、伝えとくわ」
「え待って、頼むから、手のことは黙ってて……」
 何だか泣き出してしまいそうな声でそんなことを言うので、俺はつい絆されて優しーい声を出してしまった。
「学校の人間装っときゃ怪しまれないだろ。お前はまだ寄宿舎にいるとかなんとか、テキトーに言っとく」
「……、ありがとう」
 素直になられると、ちょっと可愛気がある。ていうか、しょんぼりしてると可愛いなコイツ。ずっとしょんぼりしてろ。という俺の心の声はまあ届かなかったらしく、御津は普段の口調に戻っていた。
「にしても本当に、こんな……散歩みたいなことでいいの? おれたちさっきから歩いてるだけだけど」
「いいんだ。つか、他にどうしようもねえ」
「そのコート暑くない?」
「別に」
 他愛のない会話を交わしつつ、俺たちは歩く。初夏にしてはまだ過ごしやすいものの、じんわりと地面から染み出すような暑さが、夏はもう始まっているのだと告げていた。
 俺はいつもの如く口を閉ざしたまま歩いた。依頼に当たるときはこれまでずっと独りだったから、黙っているのは当然なのだが。
 御津はいつの間にかその沈黙にも慣れた様子で、その空気感に不思議な馴染み方をしてきた。こいつが、誰にでも心を開くタイプではないということはすぐにわかった。俺とは別の意味で、他人と距離を取る癖がついている。自分の体質を知らずにそれをやってきたというのは、少し悲しいことかも知れない。
 靴が地面を擦る僅かな音だけがすぐ傍に聞こえる。しばらくはそうして、ただ黙って歩いた。
 深く濃い夏の陰を踏んで歩くような時間がどれだけか過ぎ、緩やかに午後の日が傾きかけた頃、ようやく御津が口を開いた。
「椎輔、おれの身体どう? どこかなくなった?」
「お前、そんな気軽になくなっていいのかよ……」
「困るけど、反応ないとおれ無駄だし、椎輔も何も出来ないんじゃないの」
 出来ない。本当に何も出来ないから困る。かと言ってそう簡単に目の前で人体消失されても、俺だって寝覚めが悪くなる。それはそれとして、こいつ何でナチュラルに俺の事呼び捨てにしてんだ。
「おばけが怖くないってことは、お化け屋敷とかも全然平気?」
「やだよ。脅かされんのこえーじゃん」
「え、そーゆーもん……なの?」
「お前まだ勘違いしてんのか。俺別に怖いもの知らずの人とかじゃないから。強盗とか野犬とか普通に勘弁だし、刺されたり撃たれたりしたら死ぬし」
 そこは一番、勘違いされたくない。俺は、『よくないもの』の天敵であるという体質を持っているだけで、それ以外は至って普通〜の人間に過ぎない。物理的に強いわけでもなく、もちろん不死身でもなんでもない。
 そもそも『よくないもの』が人体に及ぼす害悪というものだって、ケースによって差はあれどそこまでハッキリとしたものではなかったりもする。よくないもののいる部屋に入ると必ず気分が悪くなるとか、妙な感覚に襲われるとか、気分が沈むとか、自傷行為に走りたくなるだとか。
 俺はそうした感覚や衝動を何一つ自分で感じたことはない。だがそれを認識出来る人たちは皆、必死で訴えてくる。それがどれほど恐ろしいか、それがどれほど歪んでいるか、それがどれほどよくないものであるのかを。
 そうして俺はその人たちの気持ちを何一つ汲めないまま、その『よくないもの』が燃えている火元へ行き、自分でも何が何だかわからないままそれを踏み消す。誰の気持ちにも寄り添えないけれど、役には立つ。
 それでいい、と思うまでには少し時間がかかった。
 もしかしたら、誰にも理解されないという点で、御津は俺と似た立場にいるんじゃなかろうか。
 今の状態に混乱して戸惑っているくせに、ただ黙って俺のあとをついてくる。受け入れきれないことでも拒まない。そういう性格、否、体質なのかも知れないけれど。
 不意に苛立ちを覚えて、俺はくるりと振り返ると御津の右手の手首を掴んだ。わっ、と小さい声をあげたものの、御津は暴れたり俺の手を振り払ったりもせず、されるがままになっている。
「なに? 何か……出た?」
 肩を竦めて、明らかに怯えているくせに御津は抗わない。俺の言いつけを守って俺の傍にいる。俺の、守ってやるという一言を信頼して、逃げ出さずにここにいる。
 危うい。こいつも。
 一瞬そんな風に考えてしまって、俺は御津の目を覗き込んだ。怖けりゃ逃げればいい。厭なものからなんて、全力で目を逸らして逃げればいい。危ないと思うものからは遠ざかればいい。なのにこいつは。
 こいつは。


「こいつ……」
 やられた。
 お前のその寝付きの良さ何なんだよ。どうなってんだよ。
 あれから結局何事にも遭遇せずに帰宅して、俺がほんの一瞬洗面台で手を洗っている隙に、御津はまたしても俺のベッドで寝落ちていた。この部屋には椅子以外にソファとかそういうものを一切置いていないから、身を投げ出せるのはベッドしかないが、それにしたって一瞬でめちゃくちゃ深いとこまで落ちやがって。
 そういや今日も明日も明後日も、こいつは夜が来ると眠るんだという事実をすっかり忘れてた。これから先、食べたり寝たりを他人のリズムに合わせてやらなきゃならないなんて、そんな煩わしい目に遭うなんて昨日の俺はまるで考えてなかった。なんて事だ。
「おい、御津」
 揺すっても、改めて深い呼吸をするのがひとつ聞こえただけで、御津は起きなかった。おい、と両肩を掴まえるみたいにして顔を覗き込む。近くで見ると、何だか御津の目元は人形みたいに睫毛が揃っている。なかなか整った顔をしているはずだが、動いているとどうしてかどこか抜けた印象を受ける。そして寝るときは頑固なまでに寝落ちる。いい加減にしろ。 
 仕方なく俺は御津をそのまま放置して、コートを羽織って独りで事務所を出た。
 十数分の徒歩圏内に、明都さんの『本部』はある。街ごとに事務所と本部を設置して、明都さんは基本その本部を動くことなく依頼をこなす。動くのは俺だけだ。
「おっとぉ?」
 俺が合い鍵で中に入ると、明都さんはちょうどひとりで一杯ひっかけているところで、俺の顔を見るなりちょっと悪い顔で笑った。四角い洋酒の瓶は中身が半分ほどに減っていて、俺の顔を見ながらグラスに作ったハイボールを飲み干す。
 一見すると実にチャラい。ツーブロックに刈り込んだ上にウエーブがかった茶髪が揺れ、耳にはピアスが三つ。目尻の垂れた甘ったるい顔に合わせたような甘い香水をつけていてと、いかにもチャラい。年齢不詳を自認しているが、俺の見立てではそろそろ三十半ばに差し掛かる頃だ。多分当たってる。
「珍しいな、こんな頻度でお前の顔見んの」
 彼がそう言うのも無理はない。俺は一昨日この街に到着して『事務所』の鍵と、ここの合い鍵を受け取ったばかりだ。明都さんと俺は簡単に言えば仕事仲間という関係になるが、いくつか特殊な取り決めがあって、まず明都さんは今いる部屋『本部』の合い鍵を、必ず俺に渡さなくてはならない。明都さんに会う必要があるときは、連絡をとる必要はなく俺はこの合い鍵でいつでもここに直接訪ねてきていいことになっており、そのときに明都さんは絶対に不在にしてはいけない。
 と言っても、俺は今までこうして街に来て依頼をこなす際に、終了の報告以外で本部を訪ねたことはなかった。だから明都さんは俺の顔を見て驚いた様子だったが、すぐに機嫌のいい顔になって俺の分のグラスを取り出すのを、俺は手だけでやんわり断った。
「ちょっと、妙な事情になってて」
「どうした、女絡み?」
「ガキですね」
 え、と明都さんが顔中を見開いたような表情のまま固まった。
「違います。赤ん坊とかでなくて、高校生男子」
 すぐ茶化すんだからなこの人は、とため息を吐いて、俺は御津について簡単に説明した。明都さんは途中までニヤニヤしながら俺の話を聞いていたが、だんだんと真顔になっていった。
「……手がなくなったってのが、俺いまいちピンとこねーんだけど、何それ? 人体ってなくなんの?」
「正直俺にもよくわかんないんですけど。それハッキリ言うと多分あいつパニック起こして余計面倒そうだから、わかる、って言い張っておきました」
「正解だな」
 明都さんはそう言いながら、カウンターの引き出しからあれこれ資料を取り出してきた。具体的には、この街の火元に関する情報の原簿だ。依頼人からそれを直接受け取るのは明都さんの役目で、俺には必要な部分のコピーだけが回ってくる。俺よりもずっとこの世界が長くて、研究もしていて知識が豊富だ。何より、俺の『体質』を一目で見抜いてくれた。自分でも上手く説明のつかなかったこの体質が誰かの役に立てるのだ、と教えてくれたのも明都さんだった。
 その明都さんをして、御津の身に起きたことは初耳だったらしい。そうなると、ますます俺の予感は正しいことになる。
「俺の率直な感じ言っていい?」
「どうぞ」
「ものすごくヤバそう」
「でっすよ、ねぇ……」
 両手の指先を合わせて、俺は天井を仰いだ。俺の方にチラリと視線を投げてから、明都さんが言った。
「だって椎輔、躊躇してんだろ?」
「そうなんっすよねぇ〜……ちょっとね」
「初めて見るわそんなん」
 そう。俺は今まで『厭な感じ』がした経験がない。わからないのだ。火元には、よくないものがいる。そこに俺が近づくとそれは消える。その仕組みがわかっているだけで、俺にはそれを認識することが出来ない。だからこそ、どんな案件が来ても断ったことはない。やることはいつも同じだ。明都さんがアタリをつけてくれた火元の場所の付近をウロついて、近づいて、消す。それで終わり。
 それなのに、俺は今あの家、御津の実家に近づきたくないと思っている。何か得体の知れないものがあそこにはある、という気がしてならない。
「でもそいつどうすんだ、その高校生。帰れないったっていつまでもお前のとこにくっついてるわけにもいかないだろうに」
「あ、それで思い出した」
 そうだった。俺がここに来たのはひとえにこの『本部』が、俺のいる『事務所』よりも広いからだ。俺は事務所を構えるときはいつも、完璧な独り部屋にしてもらっている。誰かが入り込むような隙間は要らない。対して、明都さんはいつも広めの本部を使う。ツーベッドルームで、リビングも広い。万が一のことがあるから本部は広い方がいい、と言えばそれらしいが、どうもよく人を連れ込んでいる節がある。まあ、そこは俺の知ったことではないが。
「明都さん明日から夜だけあれ預かってくれません? 昨日も今日も俺のベッドで寝られて困ってんですけど」
「え、いいの? だって」
 明都さんの表情が一気に明るくなった。明都さんはいわゆる両刀というやつで、恋愛だのセックスだのの対象は男女を問わない。あと、基本年下が大好きだ。
「可愛かったら俺、お味見しちゃうけどいーの?」
「いやそれ俺に断ることじゃないでしょ。あれ別に、俺の何でもないんですから」
「そんなん言って、後で恨むなよなぁ。いいよいいよー全然俺は。むしろ大歓迎だね高校生」
「割と面倒くさい奴ですよ……」
 一気にヘラヘラした顔になって浮かれ始めた明都さんを見ていると、ついでに今日ここで寝かせて欲しい、という言葉を飲み込むしかなくなった。そもそも、他人の部屋に泊まるのなんかまったく御免こうむるのだが、他人と同じベッドで寝るのと天秤にかけた結果、明都さんの部屋が勝ったはずだった。けど、正直それはそれで鬱陶しい気しかしない。
「じゃ明日、あいつここに来させるんで」
「おう、じゃ今日はせいぜい仲良くお前のせっまいベッドでイチャイチャしときな。わー楽しくなってきたぞー部屋掃除しよ」
 はしゃぎだした明都さんを放置して俺は再び俺の部屋へ戻った。御津は一向に起きる気配もなく昏々と眠っている。
「……」
 何の気なしに、寝ている御津の頬に手の甲で触れてみた。さらりとしていて清潔だった。なるほどこれなら崩れてしまっても無理はないのかと、他愛もないことを考えた。御津の鼻から抜ける呼気で我にかえり、俺は御津を押しのめして背中から強引にベッドに入った。
 

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