『この世の終わりはとても静かな』

『逆行少年(初)』内収録の、一番短い話。

そして一番少年じゃない話。青年×青年。

 

『この世の終わりはとても静かな』


 犬飼さんの家は、高台の一軒家だ。ご両親のご両親、つまり犬飼さんの祖父母が住んでらした、古い古い洋風建築。そのうち改装したのは今犬飼さんが寝起きしている二階の一室だけで、ほかの部屋は夏暑く冬寒く、住めたものではないのだそうだ。それでも、その古い家のことを話すときの犬飼さんの顔は、とても優しい。
 犬飼さんが最期の場所にと選んだのはここだった。予想通りと言えば予想通りだ。俺がずっと気を揉んでいたのは、まさかの既に誰か一緒に過ごすひとがいる、っていうパターンだけだ。
「本当、静かですねこの家」
 二階にあるリビングに通される。確かに古いけど、上品で、ここに暮らした老夫婦がいかに暮らすことを楽しんだのかがわかる部屋だった。犬飼さんがなぜこの家にこだわっていたのか、一目で理解できた。プライベートな犬飼さんを垣間見た気がして、思わずニヤついてしまった俺とは対照的に、犬飼さんは難しげな顔をした。
「それより君は、何しに来たんだ」
「ひどいな犬飼さん、せっかく来たのにそんな冷たい言い方」
「冷たいも何も。本当に何しに来たのかわからないから訊いてる」
 大真面目な声でそう言う犬飼さんの、頭の固さを思いやる。きっと前世はお侍さんとかだったのに違いない。
「そんなのひとつしかないでしょ」
「……?」
 本当にわかってない、そんなところも好きなんだけれど何せ今日は時間がない。直球投げないと、伝わるものも伝わらない。
「犬飼さんと、一緒に過ごしたいんです」
「……私と?今の状況わかっているのか」
「はい」
 遠くで空が鳴った。雷の、もっと不吉なやつとでもいうべきか。大気が終焉を告げている。 
「先約がなくてホッとしました」
「そんなもの、私にあるわけがないだろう」
「犬飼さんが鈍くてよかった」
 本当に、心の底からホッとしたので俺は緩く笑った。反対に、犬飼さんの眉間にはぎゅっと深い皺が寄った。可愛いなあと心の底から思う。
「君は、君はどうなんだ。一緒に過ごすべきひとがいるんだろう」
「いますよ。今ちょうど、そのひとと一緒に過ごしてます」
「茶化すな」
 もともと会話が弾む、という間柄ではない。というより、犬飼さんにそういうスキルはない。ないところがいいから俺には今の時間が楽しくて嬉しくて仕方ないけど、犬飼さんの方はどうやら居心地があまりよくないらしい。
「渡部」
「何ですか、犬飼さん」
「コーヒーでも、淹れてやろうか」
 ………。
 もうちょっとで、ソファの飾りひもをちぎりとってしまうところだった。危ない、おばあさまの形見のソファ。
「本当に?!信じられない!」
「な、何が」
「生きてるうちに犬飼さんの淹れたコーヒーが飲めるなんて!」
「ちょっと待て、いくら何でも大げさな」
「大げさでもなんでもありませんよ、犬飼印の犬飼コーヒーですよ?」
「それこそ大げさだ!ただのインスタントコーヒーだぞ」
 出せなくなるからやめてくれ、と懇願されて、渡部がハイと行儀よく、かつ満面の笑みで答えた。

 午後になっても政府の発表は変わらない。テレビのチャンネルはどこをつけても同じ。今日の深夜0時きっかりに、空のアレはこの星に落ちてくる。月はもうすこし離れたところで、この惨事を見守ることになりそうだ。
 惑星だ、隕石だ、って最初は騒いでいたんだっけ。そのせいで天文観測所づとめの犬飼さんは家に帰れない日が続いた。そのうちあれはガスの塊だから核でふっとばそうって話になって。やれ位置がどうのどの国から発射するの、今やってる戦争全部置き去りで世界は揉めた。結果、とある発展途上国の一角に新しい基地まで作っちゃって、そのせいで世界中のコーヒー豆の価格が大高騰して、ついに俺みたいなちっさい喫茶店主にまで影響を及ぼした。というか、むしろ大打撃だったのはこっちで、俺たちちっさい喫茶店の店主の会略してちっさ店会は皆で身を寄せ合って、なんとか店を閉めずにやりくりを頑張った。今飲んでるこれは、そのご褒美なんじゃないかと思ってる。
「あー……、美味しい。この世の終わる日に飲むものとしてこれ以上はないです。なんで飲んだらなくなるんだろう」
「もう一杯飲むか?」
「そうじゃなくて、ずっと口に入れときたいって意味です」
 わからん、と唸って犬飼さんはそっぽを向いてしまった。ひとり掛け用の椅子に片肘をついて足を組んで、そこに高い位置の窓から入る午後の陽射しがかかるとものすごく綺麗だ。本人に言っても伝わらないだろうなあ伝えたいなあ、とニヤニヤしてしまうのを誤魔化すべくおいしいなあおいしいなあを無駄に繰り返していたら、そっぽを向いたままで犬飼さんがぼそりと言った。
「君に淹れてもらったやつは、もっとずっとうまかった」
「そんな」
「食べる方もずいぶん世話してもらったな。君のもってくる、中身の難しいサンドイッチはいつもうまかった」
「あはは」
「簡単なものですけど、って言いながら持ってくるくせに簡単だったためしがない」
 犬飼さんの言う「簡単」はシンプル、のことだ。たとえばコンビニで売ってるタマゴサンド。あれは本当に白いパンにタマゴマヨが挟まってるだけだから「簡単」なもの。俺が作るのはセサミブレッドとハニーウィードを交互にして、サラミならチェダー、パストラミならマスカルポーネチーズをはさんで更にサニーレタスなんかも入れると、もう十分犬飼さんには「難しい」になる。ここにまだまだオリジナルのマヨネーズとドレッシングとマスタードが入るんだけども。
「今夜は、なに食べましょうね」
 勿論、最後の晩餐なんだから作る気満々で材料も機材も準備してきた。コーヒードリップのセットもあるんだけど、今は犬飼印の犬飼コーヒーが最高すぎるから、あれは夕食後まで隠しとこう。
 しばらく黙っていた犬飼さんが、相変わらずそっぽのままこんなことを言い出した。
「……なにか俺が、君にしてやれることはないか」
「え?」
「何となく思い出してみたが…本当に世話になった記憶しかない」
 いやいやいや、いいんですって本当に俺が好きでしてたんだから、という気分と、犬飼さん今俺って言ったなあっていう感動がもういっこ。
 そもそもこの恋は本当に俺の一方的な片想いなんだから。夜中に疲れ果ててうちの店に寄ってくれるだけでもうれしくて、俺の出したものをおいしそうに食べてくれたり飲んでくれたりする顔が見られるのは全部全部俺にはうれしいことでしかなかったんだから。
「して欲しいことじゃなくて、させて欲しいことならあるんですけど」
「させて欲しい?」
「キスしたいです」
 ………。
 ……………。
 言っちゃった。あーあ俺ってばついに言っちゃったよ。
 あと十数時間だったのに。
 それだけ我慢したら、この穏やかな関係だけを残して綺麗に消えられたのに。
 と思いつつも後悔はしてないな。言わないで死んだらそれこそ俺の魂とかが一生宇宙を彷徨っちゃう。いや一生は今日終わるとこだけども。そんなバカなことを考えながら、犬飼さんの傍に行こうとしたら、先に犬飼さんが立ち上がった。まだ顔が見られないんで、結構な勢いで今俺の心臓はどきどきしている。怒らないでくれるといいな。いや、でも、どっちかったら混乱してるかな。
「……は」
「え?」
「……歯、磨いてくる……」
 言うと、犬飼さんはリビングを出て、階段を降りていく。一瞬、予想外過ぎてぽかんと口を開けてしまったけど、大急ぎで後をおっかけた。
「あっ、あっじゃあ俺も!」
 しゃかしゃかと、これからキスするふたりで並んで歯を磨く。古くて静かな犬飼さんちなので、妙に爽やかに歯磨きの音が廊下に響いた。にじゅうも半ばを過ぎた男がふたり、しかも俺も犬飼さんも180以上あるからこれはなかなか愉快な絵かも知れない。鏡の中の犬飼さんと目があうかなーと思ってじっと見たら、くるっと後ろを向いてしまった。やばい可愛い。今俺このひとが何しても可愛いしか言えない気がする。箸がころげても犬飼さんが可愛い。浮かれたんで、安物の使い捨て歯ブラシがあっという間にバッサバサになるくらい派手に磨いた。口元を泡だらけにしてニコニコして見せたら、犬飼さんはさっさとうがいを済ませて元いたリビングへ引き返してしまった。

「うれしくて。こんな日が来るって本当に思ってなかったんです」
 ふたり掛けのソファの方に並んで、ぴたりと額を近づけた。本当はものすごく気が急いてるし、許されるなら一瞬でも長くキスしていたい。犬飼コーヒーをずっと口の中に入れておきたい気分と同じだ。でも。
「……それは、こっちの台詞だ」
「犬飼さん、俺が犬飼さんのこと好きだって全然気づかなかったですか?」
「……、それは、少しは」
 だよね、良かった。別に見返りを求めてたつもりじゃないけど、気持ちは伝わってて欲しい。たまたま犬飼さんがうちの店に寄ってくれてからこっち、ほぼ一目惚れでずーっと好きだった。だから職場に頼まれてもないデリバリーをしてみたり、犬飼さんの帰宅時間に合わせて閉店遅くしたり、地味な努力を重ねたわけで。
「ただ、そうくるとは思わなかった」
「あ、キス」 
 俺がそう言うと、犬飼さんがうつむいた。それでもまだ額は触れている。これは確かに自分でも予想外だったんだけど。
「……俺の唇なんて柔らかくも何ともないぞ。やめるなら、今のうちだ」
 キッとちょっと視線を強くして、犬飼さんがまるで脅すみたいに言うのがおかしくて可愛くて、俺は両手でそっと犬飼さんの顔を包んで笑った。
「やです。やめません。だってあなたが好きなんです」
 やっと目を合わせて、言えた。一回言ったらもう、後はいくらでも言えそうな気がする。
「好きです、犬飼さん」
「そ、」
 そうか、という返事が犬飼さんらしくてまた笑ってしまった。ゆっくり鼻先を近づける。ああ近い。何も言わないでも、犬飼さんが目を閉じてくれた。案外に長いまつげが揃っていて、これのせいで犬飼さんの目はすごくくっきり綺麗に見える。だから怖い顔するとものすごく怖いけど、ちょっとボーッとしてるときなんかは、綺麗さばっかりが目立つ。

「渡部」
「……はい」
「キス、だけでいいのか?」
 ああ。
 あああ。
 そんなバカな。信じられない。信じられない。この信じられなさに比べたら、今日世界がなくなるんてものすごくどうでもいいことに思えてきた。体の芯が震えそうになったから、とりあえず顎を犬飼さんの肩に乗っけた。
「…どうしてそんなに甘やかすんですか」
「別に甘やかしてない。ただ」
 おれがすこしはわかってたようにきみもすこしは。
 続いた言葉の意味が、音に遅れて脳みそにゆっくり流れこんできて、もう気がついたら無我夢中で抱きしめていた。
「っ、う」
「ねえ犬飼さん、俺ちょっと今から全力で世界が終わらない方法考えます」
 ああ、世界中に絶対いっぱいいる。俺みたいなバカな奴。この世の終わりなんていうお祭りにかこつけないと一歩踏み出せなかったバカどもが今、一斉に頭抱えてる筈。
「そいつら全員、あり得ないくらいにメチャクチャ本気出すんで。もしかしたら世界、終わんないかもしれません」
 この世の終わりを回避するパワーなんて、きっとこういうところからしか湧いてこない。

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