返上少年

『逆行少年(初)』っていう短編集の中の一篇『返上少年』です。

『おやつ食べていきて』って本の中にこいつらの後日談みたいな話があるんですが、後日談だけじゃアレなので、最初にこっちを読んで頂いた上で、ああ訳アリなんだなこいつら、と思って頂けたら幸いです。

ちなみにそのとき作ってもらったポスター。

表紙の絵と同じだけど、色味が違う感じ。

川端康成御大の『眠れる美女』っていう超有名な話をパク…否、設定をちょっとお借りして改変しました。

乾春比良(いぬい・はるひら)×深芳(みよし)と読みます。ブログ記事だとルビがふれなくて、ちょっと読みづらくてすみません。

ボンボンと男娼。

 

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「くどいようですが、三回戻されてます。この子」
 書状と、硯よりひとまわり小さいほどの小箱を卓上に押し出しながら、女が言った。春比良がそれらを手元に納めるのを待って、茶を煎れる。めご、とだけ名乗っているこの仲居は、女という性を一切感じさせない教育を受けているのだと噂にきいた。ここ葦原楼の常客であった祖父も、この女と話したのだろうかと、春比良はぼんやり考えた。
「ずいぶん、人気があるんだな」
「は、そういう発想におなりとは。またずいぶん入れこんだもので」
 情感を思わせぬ目が細まって、春比良を見た。初めてここをおとなったときには、この目で春比良もずいぶん値踏みされたものだった。確かに、普通に考えれば乾春比良はここの常客になるには若すぎる。今思えばめごは春比良を「客」ではなく「商品」として値をはかっていたのかも知れない。もっとも、裏方の皿洗いくらいにしか値はつかなかっただろうと思うが。愚にもつかないことを脳裏にめぐらせつつ、供された熱い茶に手を伸ばす。
「まあ、惚れてる」
「三回も戻されるならなにか問題がある、とはお思いにならない?」
「出逢った場所が場所だ」
 なにがあろうが驚きゃしねえよ、と春比良がぶつりと言い放った。言うならば、ここの存在そのものこそが問題なのだから。ここ「葦原楼」は、嘘かまことか、元はひとりの小説家の夢想であったのだという。
 宿に泊まることを許されるには、何はさておき財力が重要だった。これが基準の八割を占めると言って過言ではない。小説家と、その大切な人形たちを潤して余りある対価。それを支払う余裕のある物好きだけが、彼の爛れた夢想の相伴にあずかることが出来た。
 余分なものを何も含まない、一時のぬくもり。若い頃にはただただ眠ればみられたはずの夢をみるために、客らは莫大とも言える金を払った。
 春比良の祖父は、死の間際までこの宿に通いつめた常連客のひとりだった。そうでなければ、彼のごとき若輩はここの存在を知ることすらなかっただろう。
 春比良は幼い頃からこの祖父に、大層かわいがられた。とことん猫っかわいがりのひとだったから、十数人いる孫全員に甘く、いつでも遊びに行けばぽち袋をくれ、自動車に乗せて敷地内を疾走しと精力的だったのは確かだ。
 しかし数多いるいとこ達の中で、祖父の膝に乗って座敷で芸者衆のをどりに手拍子を打ったことがあるのは、おそらく春比良だけだった。当時はさして面白いとも思われず、白塗りの集団に囲まれきゃあきゃあ騒がれるのを不気味だとすら感じていた。幼いながら妙に分別くさい子で、祖父の膝の上にいるかぎり無条件で自分が褒められるのだと知っていた。そうして擦り寄ってくる連中は恐ろしいものなのだ、ということも何故か理解できた。とりわけ恐ろしかったのは、かわゆいかわゆいと嬌声を上げながら、春比良の手を己の体に押しつける女だった。勿論その恐ろしさの正体が、女としての本気の欲望であったと気づいたのはその後随分経ってからだが、とにかく不気味で恐ろしかった。己が妙に女の情欲をかきたてる容色をしているのだと、春比良はずいぶんに早く知ってしまったと言える。
 そんなわけであまり夜の女も宴席も好きではなかったが、祖父のことは好きだったので、その後もおとなしく座敷にくっついて行った。祖父が酒を飲む姿はなんだか絵物語の戦国武将のような風情があったし、一番華やかに装った女がおっとりと微笑みながら祖父に酌をしているのを見るのも好きだった。一番の女、というところに妙に満足した。あるべきものがあるべき場所にあるのは、心地のよいものだった。
 どこまで本気だったかはわからないが、祖父は「おまえには遊びの才がある」と笑って、その後もお茶屋や座敷に春比良をちょいちょい連れていった。が、さすがにその記憶の中に葦原楼はなかった。当然だ。いくら祖父が豪放磊落なひとだったとはいえ、子ども連れでここには来るまい。
 祖父の予言が当たったとも思えないが、成長した春比良は夜の街に自ら出かけることを覚え、酒の味も覚えた。相変わらずそれらは、春比良にとってさして面白いものではなかった。女らの反応は春比良が祖父の膝に座っていた頃となにも変わらない。当時は祖父にまとわりついていたものが、すべて自分に向くようになったのが煩わしくてならなかった。当人がどう思おうが、春比良は見目のいい金持ちの息子、という肩書きに抗えなかったし、それにへつらう連中が想像以上に多いのだということも知った。
 別に、祖父のようになりたかったわけではない。祖父ほどに遊びを楽しめない自分も知っていた。それでも夜街の気配を恋うたのは、何だったのか。
 そうした日々にも膿んできた頃。
 ある日春比良は、祖父の遺品の中から一葉のはがきを見つけた。新年の挨拶のようではあったが、消印は三年前の二月であった。頼りない筆致で、ひと言だけこう書かれていた。
「そろゝおめにかかりたいです」 
 子どものようだが子どもではない、と直感した。差出人の名前もない。だがきちんと消印があるから、ポストに投函されて祖父の元に送られたものであるのは確かだ。祖父が寝ついたのは、この消印の翌月であったと記憶している。何かしら謎のにおいを感じ、はがきを手元に持っていた春比良が「葦原楼」にたどり着くまで、そこから二年がかかった。
 今日と同じように茶を煎れてくれためごにはがきを差しだし、この文字を書いたひとに会いたいのだと告げると、ああこの子ならちょうど空いてますよお泊まりになりますか、と言われた。それが春比良の初めての登楼になった。
 結局、はがきを送った「少年」が、祖父の名を知っていたかどうかすらわからなかった。

「それにしても、どういう心境の変化で?」
 めごの声で我にかえった。今、自分がしようとしていることを改めて思うと、つい祖父のことばかり思い出してしまう。祖父の遊び方を手本とするならば、やはりここには通いで来るのが一番いいのだ。夢幻の世界は、手元に引き寄せればかならず色が褪せる。
「心境はなにも変わっちゃねえよ」
 そう。心境は変わっていない。変化があったのは春比良の心ではなく体の方だ。どうもいけねえらしい、と口に出そうと思ったが、駆け引き的なことではなく、なんだかひどく陳腐な台詞に思われたのでやめた。
「……」
 めごの目が、計算高く春比良を見る。胸を病んだ、と見透かされたかも知れない。請けだした春比良が死ねば、また「彼」は行くところがなくなってここに戻される。楼閣側としては損はない話だ。
「よろしいか、これらは眠っていればこそ愛玩人形なのです。目覚めればただの」
 人間です、と作りものの声が念を押した。春比良が黙ったまま頷くのと同時に、隣室へ続く襖が開いた。
 奥に敷かれた豪奢な布団が薄く人の形に盛り上がり、規則正しい寝息に合わせて上下していた。

******
 暦の上での春は、実際にはまだ寒々しい。一番分厚い外套を着ていても、夜半を過ぎたこの刻限には体が芯から冷えてくる。店の横手の母屋へ通じる勝手を通り過ぎ、まだ花立つ日は遠かろうという桜の並木を眺めながら、春比良の足は自宅である離れへ向かう。今現在は家人らともほぼ顔を合わさず、ここにひとり引き籠もって暮らしている。晩年の祖父がそうしていたのを、そのまま引き継いだような形になっているのだ。なので、生活の有り様も、まるで祖父が生きていた時分のままになっている。食事は三度三度厨房から運ばれ、朝の洗面の支度と庭先の手入れ、その他は呼ばれるまで誰も近づかない。
 祖父の存命中から、春比良はよくここで寝泊まりをしていた。春比良は学校に通っておらず、代わりに個人教授を受けた。読み書き算術も人並み以上にはできたが、こと店の仕込みとなると全く興味を示さず、父を嘆息させ母を泣かせているが、それについてはさして罪悪を感じていないのが正直なところだった。ただ、自分が先に死ぬだろうことについては、心底申し訳ないと思った。

 奥の間に、人の立ち入った気配があった。正確に言うなら気配はもう完璧に消されている。ただ室内が暖められており、一通り掃除を済ませた痕跡のみがあった。
 不思議なものだ、と思わずにいられない。先まで楼にいた春比良が帰宅する頃には、もう「彼」が待っているのだ。
 身請けの条件のひとつには「一軒家」であること。春比良がこの離れのことを口にすると、ああ乾さまの、よろしゅうございますと拍子抜けするほどにあっさりと承諾された。これもまた祖父の力の影響なのだろう。いったい彼があの宿に注ぎ込んだ情熱はいかほどのものだったのか。正体の知れぬものへの憧れ、という点では春比良は祖父の気持ちがよくわかる気さえした。
 不覚にも、襖を開く手が震えた。何にも代え難いものを手に入れる瞬間なのだと思うと、胸が熱くなる。ちょうど生前の祖父が寝ていた場所に見慣れない布団が敷かれており、そこにはまだ「愛玩人形」のままの彼が眠っていた。
「……」
 枕元に古めかしい灯炉が置かれ、見知った白い顔がやわらかく照らされる。
 春比良はこの顔を知っている。髪の細さも、肌のなめらかさもよく知っている。だが、彼の名を知らない。声も、目の奥の光も知らない。
 着替えを済ませ寝間着に兵古帯の軽装になった春比良が枕元に胡座をかいた。まるで計ったかのように、布団の中の彼が身じろぐ。商品はすべて薬を使って完璧に管理しております、とめごが言っていたのを思い出す。
 彼は、彼らは。眠りの中にあってこその商品。
 葦原楼は、そういう宿だ。
 春比良は、彼の眠っている姿しか知らない。
 眠っている彼の布団の中に入り、ともに眠った。薄い着物の袷に手を滑らせて、暖められた素肌に触れた。返るのは生きているのだとかろうじて確かめられる程度の寝息と、温度だけだった。大概の少年は髪を伸ばして緩く束ねていたが、彼は短くしていた。それが宿の趣向に拠るものか、彼の意志なのかはわからない。ただか細い首が、一層細く白く見えるのは事実だ。
「……」
 す、と音がした気すらした。長い睫毛が持ち上がり、ついぞ見たことのなかった彼の目が開いた。天井を見たまま、息を飲むのがわかり、春比良は思わずその顔をのぞき込む。布団に掛かった布が擦れて、神経質な音をたてる。敏捷な動きで起きあがり、彼は左右を見回した。
「……っ、ぁ」
 不安定な魂、というものはこんなにも所有欲をかきむしるものなのか。今にも指先から崩れて消えそうな儚さを醸すのに、彼の瞳は黒々と濡れている。しばらく様子を見ながら片手をあげ、ゆっくりとそれを近づけた。そのうちに、黒い瞳がその動きを追うのを確かめながら距離を詰め、両手の中に彼を納めた。
「落ち着けよ、怖い目に遭わせたりしない」
 ぎゅっと抱くと、腕の中にくたりとしたなま暖かい頼りなさが蟠った。猫を抱く心地に似ている。自儘に動こうという意志の塊であるのに、それは確実に春比良の力なしには生きていけないものなのだ。
 がたがたと震える肩を優しく撫でさすり、安心するような言葉を選んでかけてやった。大丈夫、ここはおれの住んでいる離れだ、お前とおれの他には誰もいないよ、と。
「名はあるの?」
 耳朶をかすめるほどに唇を寄せて、小声で問いかけた。覚えのある香が春比良の鼻腔をくすぐる。あの宿の「人形」たちからは、必ずこの香りがするのだ。
 みよし、とか細い声が返った。みよし、文字はどう当てるのだろうか。深芳、が似合うのではなかろうか。この時点で春比良の胸の内は、もうどうしようもないほどに躍っていたのだ。
「みよし、そう。いい名だ」
 自分でもゾッとするような猫なで声を出してしまったが、不思議と春比良は満たされた気分になっていた。時を待たずして余命をかぞえられる身になる春比良が、この、脅えた少年の命を預かる。それは退廃的な匂いのする、ぞくぞくするほど美しいことのように思われた。
「……くださ、い」
 すがる目をして深芳が言った。そこで初めて、宿から託された三つの薬入れのことを思い出した。

― 最初に目をさましたときには、それはそれは狂乱し錯乱するでしょうから、
― そのときは一つ目のをやって下さい。入っているだけ、全部飲ませてかまいません

 すこし待ちな、と声をかけて立ち上がる。その一時をもいやがる深芳のそぶりが愛しい。今この瞬間が永遠にゆっくりと流れればいい、とすら思う自分に春比良は驚いた。自分にそんな情緒的な感性があっただろうか。汚泥の中で、きらきら輝く玉石を守る一尾の魚になるような、優美さとみじめさをない交ぜにした感覚だ。
 合わせ細工になっている木製の箱は煙草入れよりすこし小さいくらいのもので、上ぶたをすべらせると中には卵型の陶器が三つ、綺麗に納められていた。向かって左から、一、二、三つ目です、と説明しためごの声が蘇る。
「うわ、」
 左端の卵を手にとる。卵は真ん中から二つに割れて蓋と容器に分かれる仕組みになっていた。蓋を開き、おもわず春比良が声をあげた。薬、というからには粉か錠を想像していたのに、卵の中からは半分液状の、金色の蜜がどろりと流れ出したではないか。あわてて一度、蓋を閉めたが、卵の中いっぱいに詰めてあった蜜が春比良の手を汚した。
「ああ…!」
 ほとんど叫ぶような有様で、深芳が春比良の手に顔を埋めた。そうして、春比良の指についた蜜を舌先で舐め取り始めた。動物的な所作だった。一心不乱に舌を使う様子を呆然と春比良は見ていたが、ひととおり手にこぼした分を舐め終わったと見てとり、卵の蓋を開けた。下半分の容器いっぱいに満たされた蜜薬を、静かに深芳の口元へ運ぶ。
「口、開けて」
 気の毒なくらいに青ざめている。色の薄い唇を、深芳がゆっくりと開いた。とぷり、とぷりとその隙間に蜜が流れ込んでいく。赤い舌が、一滴も逃すまいと右往左往するのが見えた。飲み干すと、疲れはてた様子で深芳は掛け布団の上にうつ伏せに、上体を投げ出した。そうして先まで過呼吸に陥っていた荒い息は、程なくして穏やかな寝息へと変わっていった。
「……」
 再び力をなくした身体をきちんと布団の中に入れてやってから、深芳になぶられた指先を、春比良はじっと見た。寄る辺ないその感触はなかなか消えようとしない。思えば、葦原楼ではずっとこの感触のみで満足してきたようなものだ。
 だが今はもうこの深芳は、春比良のものだ。しっかりと自分の腕の中に抱いて、その中に食い込むことも春比良の自由なのだ。
 すくなくとも、今朝まではそう思っていた。

 早朝、七厘に足す炭を熾して部屋に持っていくと、彼は既に床から半身を起きあがらせていた。夕べはえらく小柄に感じたが、童女ほどにというわけではない。春比良の姿をみとめると、目端を緊張させて口を開いた。
「どこだ、ここは」
「………」
 こういう目をした猫をみたことあるぞ、と春比良はまず思った。祖母がかわいがっていたタマだかミケだかいう猫が、こんなだった。毛並みよく美しく、祖母の前では行儀もよかった。だが、目は据わっていたっけな。俺たち孫を平等に毛嫌いしてたあの猫のことを、こんなときに思い出すなんて。
「……お前、ここはどこかと訊いている」
 お前って。それに普通、おれが誰かを訊くのが先なんじゃないか?と思いつつも春比良は素直に説明してやることにした。ここは乾の離れで、自分の名は乾春比良で、今は朝だということ。
「……乾家?」
 妙に鋭く眼光を光らせて、深芳が室内を見回した。早くも、昨日の光景は夢だったのではないかと思うくらいには、鋭い。
 これ以上ないくらいに、儚い少年だったはずなんだが。

 朝食の膳が運ばれてきてもなお、深芳の眉間には深い皺が刻まれたままだった。痩せても大店ではあるから、朝餉にもそこそこ良いものが並んでいる。豆腐や卵焼きは下手な旅館に負けない味のものだし、米も味噌も質の高いものを腕のいい料理人が丁寧に調理している。すこしくらい表情が緩むことを期待したって罰は当たらない。しかし。
 隙のない箸使いで、出された膳を綺麗に食べきった深芳は相変わらず眼光鋭く、背筋を侍のようにぴんと伸ばして正座していた。
「つまり、四人目なんだな」
「まあ、そういうことになる」
 なんだろう、実の父親にだってこんな横柄な口をきかれたことはない。個人教授の先生方だって、ここまで意気高なのには会ったことがない。
「……本当に、お前が?」
 ああそうか、と春比良は納得する。お互いさまと言えばその通りだ。
「若すぎる。それに、特別の教養があるとも思えない。あの宿も変わってきてるな」
「おれも、身請けした男娼にこんなムチャクチャ言われるとは予想してなかった」
「気に入らなければ、戻せばいい。そういうものを受け取っているはずだ」
 深芳が言っているのはどうやらあの卵型の薬入れのことらしかった。あれの三番目を彼に服ませるといずこからともなく楼閣の人間が現れて、眠っている間に連れ帰るのだという。
「別に気に入らないとかそういうんじゃ…ただちょっと、驚いてるだけで」
「そうか。僕はお前が気に入らない」
 ずけずけ言うなあ、と色々通り越して感心した。確かに身請けした以上、もう客と商品の間柄じゃないけども、とそれでも春比良は腹を立てる気にはなれなかった。


「今日、ものすごく寒いぞ。これから雪が降る」
「これが日課だ」
 そう言い張って深芳が庭先で木刀を振り始めた。なんと、諸肌脱ぎで。なるほど日課、と彼の薄い背筋を見遣る。かつて、彼がもう覚えていないほどの昔にこれが日課であったことはたぶん嘘ではないのだろう。だが深芳の身体は成長しきる前の頼りないそれでしかなく、鍛えた肉体と呼ぶにはほど遠い。それはそうだろう。か細くたおやかである方があそこに於いての「商品価値」は高かろう……と、ぼんやり考えて、もうその価値は彼には不要なのだと思い直した。
 いつまでも彼を人形扱いするのはやめた方がいい。人形が欲しかったのならば、祖父にならって死の直前まで足しげくあそこに通えばいいだけの話しだった筈。そうしなかった己の心、己の欲の在処ときっちり向き合う方がまだ生産的だ。
 深芳は苦しい息を吐きながら、なん百と己で決めた回数をこなすまで素振りをやめようとはしない。なんだってんだ、この頑なさは。呆れながらも春比良はその姿を眺め続けた。結末は見えているのだが、今の自分にはまだ止める資格がないような気がして、とりあえず見守る方向に決めた。
「まあ、こうなる気はしてた」
「……、……」
 夕食時間を待たずして、深芳は発熱した。元いた布団の中におとなしく戻り、丸くなって震えている。
 食事札の指示時間に間に合ったので、粥が運ばれてきた。なにも春比良までつき合って粥を食うこともないのだが、単に細かい指示が億劫だったので、ふたり分粥をと頼んだのだ。
「いきなり体に無理させすぎだろ。あそこでの暮らしじゃ」
 ああまただ、と春比良は内心舌打ちした。深芳に声をかけるのに、いちいち葦原楼の話を持ち出してしまう。
 深芳は何も答えなかった。熱が高いのかと顔を覗こうにも、布団に埋まってしまって見えない。
「いきなり無理してるのは、こっちもか」
 これまで他者のことなぞひとつも考えず、自儘に暮らしてきた人間が、突然ふたりでの暮らしを円滑に進められると思う方がどうかしている。猫撫で声を出してみたって、親切になれるわけではあるまい。
 そう考えて、春比良は行動で示すことを思いついた。まずは寒くないようにと、いつもの倍量の炭を熾して深芳の寝ている部屋をあたためた。
 それから、風邪薬をくすねに母屋に出向いた。といって、店子や女中にこそこそする必要はないので、あら坊ちゃまお珍しいと声がかかれば、頷いてみせるくらいのことはした。お風邪ですかお葱はどうです、生姜湯は試されましたか?卵酒をお運びしましょうね、と一斉に甘やかされるのが、なぜか今は苦痛に感じなかった。そう「したくなる」心理がすこしだけわかってしまったせいかも知れなかった。 
 程なくして、離れには風邪によい、とされるものがどっと運び込まれた。片端から試そうと、部屋へ急ぐ。
「……あつい……、」 
 何を口にするよりも先に、汗まみれで深芳がそう言った。
「こんな…、イソップ物語みたいな真似するなんて……!」
 ああ北風と太陽の、案外子どもっぽいことを言う、と暢気に思うが、結構本気で恨まれている気もしてきた。あれだ、猫はこちらがいかに気を揉んで毛並みを整えてやったり爪を切ってやったりしても、まるで感謝しない。
 だがそれは困る、と春比良は思う。おれは、おれが何のためにこんなことをするのかをこいつに伝えなくてはならない。懐かれたいのだ、ということを伝えなくてはならない。
「違う、おれは」
「いいから、風を」
 そう言った深芳の顔は赤くのぼせていて、本当に子どものように見えた。
「こんなねちっこい嫌がらせをするために……わざわざ身請けを?」
「だから、嫌がらせじゃねえって」
 そのあたりに転がしていた本を手にぱたぱたと扇いでやると、深芳はふうと心地よさげな息を吐いた。
 

 数日後に、ちょっとした事故が起きた。
 身支度を自分でしたいと言い張った深芳が、剃刀を扱う手を滑らせたのだ。追加の湯を運んできた春比良が、畳にたらいをぶちまけた。
「大丈夫、大丈夫だから」
「何にも大丈夫じゃない!血が……!」
 布団に上体のみを起こして、洗面器と鏡を盆の上にのせて喉元を当たっていたために、深芳の布団が真っ赤に染まっていた。
「こんな、に血が」
「……大丈夫なんだ」
「……おれの傍が、死ぬほどに厭だったのか?!」
 そうじゃない、と言葉を重ねようとして深芳が言葉を飲み込んだ。春比良が本気で青ざめて、泣きそうになっているのがわかったからだ。
「言えばいつでも帰してやったものを…!こんな、」
「違う、違うんだ」
 ぐいと傷口を手で拭っても、まだ血が止まらない。諦めたようにため息を吐いて、春比良の方を向き直った。そうしてすっと背筋を伸ばし、言葉を改めた。
「……薬を、二番目のを。お願いします」

 深芳が薬をつけた指先で傷をなぞると、それはまるで人形の肌を石膏で塗りつぶしたかのように、なかったことになった。血で汚れた敷布がなければ、夢でも見ていたと思ったかも知れない。
 止血、ではない。傷が完全にふさがったのだった。
「……申し訳ない。布団をすっかりだめにしてしまった」
「本当にもう、なんともないのか?」
 春比良の、真剣な眼差しが痛いのだと言わんばかりに眉を寄せていた深芳が、ゆっくりと春比良の手に触れた。その手を引いて導き、傷を負っていた首に触れさせた。先までの出血は既に冷えて、肌の上で固まり始めている。
「……!」
「なめらか、でしょう?」
 穏やかな、春比良に言い聞かせるような口調だった。どこか諦めの匂いを含んだ物言いは、ぞくりとさせる艶を感じさせた。
「人ではないんです。人形である以上、いつでも綺麗にしておかなくては存在価値がない。だから、僕らの身体はそういう風に作られた」
 商品はすべて薬を使って完璧に管理しております。
 そう言っていためごの声が、ぞっとする冷たさを伴って再生された。あのときは、春比良も深芳のことを商品だと、人形だとしか思っていなかったからこそ、聞き流せた言葉だ。
 すっと手から力を抜いて、深芳が春比良を視た。 
「とんでもない態度をとっていたこと、お詫びします。急に人として扱われて、僕はどうしていいのかわからなかった。それでもあなたは」
 そんな顔をして案じてくれた、と呟く声はどこか照れくささが滲む。生々しい肉声、なのだと思った。ずっと欲しくてたまらなかったものを突然与えられて、今度は逆に春比良の方がどうしていいかわからない子どものように押し黙ってしまう。
「……やっとこれが消せると思ったのに、とんだへまをしたものです。全部、自分のせいだ」
 自嘲しつつ、深芳がするりと寝間着の裾を引いた。現れたのは、左足の足首から踝にかけて泳ぐ、赤い金魚だった。
「…刺青?」
「二番目の仕業でね。これがやりたくて僕を身請けしたんだと、毎晩きかされた」
 一介の彫物師に過ぎなかった男が、タニマチにやくざの親分をつけてきて葦原楼に通ったこと、深芳に目をつけ、一晩のうちに刺青を刺そうとして宿の者に咎められたこと、あと一度やれば出入り禁止にすると勧告を出した矢先、その親分に泣きついて深芳を身請けし、とうとう想いを遂げたこと。赤い魚はその結果だと、苦々しく深芳が呟いた。
「もしかして、痛むのか?」
「まさか。でも見れば思い出す」 
「言ったら気を悪くするかも知れないが」
 綺麗だ、と春比良が言った。嘘ではない。白い足に泳ぐ、鮮やかな色。人に観賞されるためだけに作られた美しい魚。ふ、と深芳が鼻で笑ったのは決して侮蔑のそれではなかった。
「ひどい男だった。だから、消したくて」
 先の薬を全部使えば、消せたかもしれなかった。そこから深芳が訥々と語ったのは、葦原楼の薄暗い歴史物語だった。葦原楼の客たちには、基本的に高い自制心が求められる。深芳の二番目などは不幸な特例だったが、通いの客である間は大人しい紳士だったはずの老人たちの欲望までもが暴走して、人形を「壊して」しまうことが増えた。最初は一種類しか添えなかった薬が今では三種、身請け人に渡されるようになったのはそうした過去を踏まえてのことらしい。
「あとは、自分が玩具にされているのだと知ってしまった人形たちが、一斉に手首を切りだしたこともあって。それを修理できるように」
 急に恥じらいを思い出したとばかりに、深芳が再び寝間着で足元を隠した。その寝間着も、血で赤黒く汚れている。綺麗なものに取り替えてやらなくてはと春比良は思う。そうだ何もかも綺麗に。
 人形のことを語る深芳の口調には、不思議な憐憫が滲んでいた。自分自身もその人形として玩具扱いされてきたにも関わらず、幸か不幸か心が消えなかった。
 だからこの子は、三回戻されたのに違いなかった。
「でも驚いたな。あなた、これのことも知らずに僕を請けだしたのか」
 てっきり全身くまなく眺めつくした後なのだとばかり、と深芳が事も無げに言い放つ。
「三番目は、これに惚れて請けだしたと言ってた。毎晩撫で回されて、その度に絶対消してやるって」
 すいと脚を引いて、いやな記憶を遠くに追いやるように表情を消す。
「僕の体のどこが好きかとか、黒子の位置がどうだとか……そんな話ばかりするくせに、勃たない老人だった」
 彼が使い分けてきた、人形の声と顔。春比良は改めて己の軽薄と無知を思う。この作りものの美しさに惹かれたに過ぎない、浅はかな四人目。ではあるのだが。
 あ、とちいさな声をあげて、深芳が決まり悪そうに眉を寄せる。そうしていると学校の先生にでも叱られたようで、年頃の、ごく普通の少年に見えた。
「……すみません。もしかして、あなたも?」
「…ん?」
「僕は口がよろしくない」
「あ、いや違う、おれは」
 深芳の素の部分に見とれている間に、性的不能を疑われているということにようやっと気づいた春比良が慌てて否定した。

 血塗れの寝具はとりあえず部屋の隅に追いやった。母屋の洗濯なんかに出せば騒ぎになるから、すこしずつ燃やしてしまおうと春比良は考えた。
 古い寝具を引っ張り出して床を延べ、ふたりしてそこに潜り込んだ。
 深芳は何も身に纏っていない。こうしていると葦原楼にいるようだが、彼の双眸はしっかりと開いている。時折物憂げに瞬きをしては、また春比良を見た。それだけでも胸が疼く。抱き寄せた深芳の素肌は、春比良の知っているそれよりもすこしばかり冷えていた。以前の彼の肌は、宿によって温められていたのだと知る。そう思うと、この身体の奥に眠っている熱を引っ張り出したくなった。
「ずっとこうしたくて、だから請けだした」
「妙なとこ、律儀なんだな」
 呆れた風に言ってから、深芳が低く笑った。悪戯と妖艶の狭間の声が、春比良の劣情をひどく刺激する。
「僕を買っていたくせに」
「買わなきゃ顔が見られなかった」
「おかしなひとだ」
 笑っている。以前は寝息と心臓の鼓動でしか確かめられなかった命が、春比良の目の前で鳥のさえずるように笑っている。その艶やかさに呆然としていると、今の今まで笑みの形の形を作っていた唇が、春比良のそれに重なった。くすぐるようにちいさな舌先がしなを作り、春比良の口熱を強請った。絡みつくように歯列をなぜられ、促されるまま口を開いて濡れた温度を交わしあった。
 できることはすべてしてあげる、と深芳が微笑んだ。すっと腕を伸ばす仕草が美しい。
「お前の好きなやりかたで、するよ」
「きつくして」
 蜜のような囁き声で即答し、もう一度唇が合わさった。
 深芳は、春比良にとってはもうただの人形ではない。と言って、ただの人間の愛人でもない。
 それなら全部伝えなくてはならない。請け出した当初の考えは、彼の嫌った老人たちと何ら変わりなかったことも。そうしてそのことを許して欲しいと、否、許してくれなくとも傍にいて欲しいと思っていることも。

******
 すべて彼のために整えた部屋。その調度を、深芳の白い素足が蹴散らした。好きだと言った掛け軸も、花瓶の水を浴びて青ざめてしまった。同じ顔色で、深芳が吐き捨てる。
「やっぱり、ひどい男だった。今度も、いや、お前が今までで一番ひどい男だ」
 部屋の中でそう叫んで、足元から深芳が崩れ落ちる。背後から近づいた春比良の頬を、振り向きざまに打った。二度、三度、されるがままの男の様子に、さらに深芳の怒りが燃え上がる。
「どうして引っ張りだした、置いていくならどうして」
 ついに床に崩れこんだ深芳の肩を、春比良がゆっくりと撫でる。振り払っても振り払っても、しつこく深芳を労ろうとする。そんな権利はないのだと誰より自分でわかっていながら。
「お前なんか嫌いだ」
「おれは好きだよ」
「人でなし」
「お前が好きなんだよ」
 深芳が慟哭した。

 空が藍色から濃さを徐々に落とし、明けの星は撃ち抜いたように白い。
 コートの誂えを急がせなかったら、目的地に着くどころか駅までの道のりで風邪を引くとこだ、と横目で少年を見遣る。相変わらず体は弱い。
「もうすこし暖かくなれば、花の咲くのが見られたな」
「花なんか」
 心の底から興味がないという風に言った深芳の白い息が、目に鮮やかだった。
 春を待たずに、未だ雪深い方面へ居を移すことにした。それを条件に、春比良はなんとか深芳を手元に留めることが出来た。恋の責任をとれ、と彼は言う。
「もう絶対に戻らない。返されるくらいなら、お前の余命も待たないで今ここで死ぬ」
 三回の返上を経て深芳が得た唯一の情報が、葦原楼の監視の目の届かない場所への行き方だった。どうせ置いて逝くのなら、その場所まで付き合えと彼は春比良に迫った。行き方は複雑で難解で、しかも一度失敗すればもう深芳の計画は葦原楼にばれてしまうだろう。それでも、もしそこに到達できて、そこで春比良が死ねば、深芳は誰にも連れ戻されることなく自由の身でいられる。勿論春比良に、否をとなえる理由も権利もない。
 即後追いをするのも、別の愛人をこさえるのも僕の自由だ、わかったか。鼻を鳴らしてでもそうして口をきいてくれるようになるまで、随分時間がかかった。
 看取るのが厭なわけではない、と深芳は言った。
「一人目は、そうだったから」
 初めて深芳を請け出した翁が、噛んで含めて教えてくれたのだという。ひとはね、ひとりで死ぬより外はないのに、いざとなると誰かの手を握って死にたいとおもうものなのだよ。いいかい、握っていたいんだ。私が手を握るからね、お前はそこにいてくれたらいいのからね。
 自分が先に死ぬとわかって深芳を引き取った一人目は、だから深芳の手だけを連れて旅立った。心まで持っていくような真似はしなかった。
「なのに、お前ときたら」
 一生許さない、と深芳は繰り返す。その言葉が既に彼の優しさだと春比良は思う。浅はかで愚かな四人目を、導こうとすらしてくれる。返せるものが、薄っぺらい言葉だけだとしても、だ。
 停車場に近づく。朝も早いというのに、妙に活気がある。ここまで賑やかなところを歩くのは最後になるかも知れない、と思ったがさして胸にこみ上げてくるものもなかった。ふと人混みの中を先に歩いていた深芳が、春比良を振り返った。真っ直ぐに、射竦めるように春比良を見ていた。
「わかっているだろうな」
「絶対ひとりにしないし、返したりしない」
 よし、とまるで軍隊の上官みたいな調子で深芳が言うのがおかしくて、静かに笑って春比良が肩を抱き寄せる。こんなことが許されないほどの罪責を、春比良は彼に対して負っているというのに。お前が好きだよ。呟くほど重くなる罪を埋めに、人でなしが雪を目指す。 


 

 

 

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