新刊『森の奥の五人の出来事』サンプル

続きから、サンプル一本。

今回構成として話の中には森の奥の五人は出てきません。

ストーリー部分は人間だったり別の人外だったり雑多な日常です。

そんでもって五人のうちのひとり、リコリたんを紹介します。

今回、話作る前にこまのさんにキャラビジュアルもらって、そっから本を作りました。

「人物ちょーだい」って言ったら人外が来ました。大好き。

本の中には五人全員収めているのでお楽しみに。

可愛くてちょっと不運ですが幸せになってもらいたい、そんなリコリたん。

続きから、サンプル文よろしければ。

 

投げ出されたリコリ

 

 初めて出来た恋人は、思えばとても真面目な人だったのだと思う。俺よりずっと大人で、大きな会社に勤めてそれなりに給料貰ってて、会うのはいつも仕事帰りだったからスーツを着ていたのも、それに拍車をかけてたんだと思う。
 高校を出てからアート系のカレッジに一応入りはしたものの、ろくすっぽ授業にも出ないうちに俺はそこに行くのを止めてしまった。夜な夜な酒場をぶらついて遊んでいたけれど、店のオーナーが小学生の頃のクラスメイトの親父で、時々はカウンターに入って仕事もさせてくれたから罪悪感はあんまりなかった。常連客とも皆顔見知りになって、俺は特に先のことなんか考えずバーテンを気取って、このままフワフワ時間が過ぎていけばいいとだけ思っていた。
 そんなところに、年上の恋人が出来たもんだから、すっかり浮わっついた気分になっていたのは否めない。彼は俺を気に入って店に連日通ってきて、俺がたまたまいない日にはすぐに帰るなんてことを繰り返した。すぐに周りが面白がったのも手伝って、俺は程なくしてその男の恋人になった。
 何というか俺は、好きという感情を恥ずかしいと考えたことはなく、また、好きという心は抱えたまま相手にもたれかかるのが、正しいあり方なのだと思っていた。具体的には、事あるごとに彼に好きだということを伝えるようにしていた。
 だから、恋人だと思っていた彼にこう言われた時はとても驚いた。
『お前は俺にどうして欲しいんだ? 何を望んでいるんだ』
 彼の家のソファで並んで座って軽くビールを飲みながら雑談、という、俺としてはとても幸せな気分に浸っていたところだったから、少し苛立った様子で突然彼がそう言いだした意味が全然わからなかった。
 このままこの部屋で、幸せだなあと思っていられたらそれでいいよ、と言うより先に彼はかなり乱暴に俺を抱きしめた。痛ぇ、と思ったけど抱きしめられたこと自体は嬉しかったから、そのままにされていた。そうか、恋人だからこういうこともするんだな、と、十代の俺は単純に興奮した。もしかしたらキスも、と思った瞬間彼の前歯が俺の唇に当たった。痛ぇ、と、もう一度思った。
 その日から、俺たちは所謂セックスをする仲になり、それ自体は嬉しかったけれども、そのつど『どうして欲しいか』をハッキリ言わされるようになったのはちょっと辛かった。俺には、俺の意志でしたいことはあっても、彼にして欲しいことなんてものは何もなかったからだ。素直にそう伝えたら、とても怒られた。彼がどんな理由で怒ったかは覚えていないけど、怒られたことだけを鮮明に覚えている。
 じゃあ、気持ちよくして欲しい。
 今思えば、その発言こそが愚かだったのかも知れない。とても真面目で小さい人間だった彼を壊してしまったのは、俺のその軽率な一言だと思うと今でも胸が痛い。
 出会ったときから彼が小さい人間だ、というのはわかっていた。誤解して欲しくないが、それは決して彼を侮ってそう思ったわけじゃない。俺も小さい人間だから、ちょうど良いと思っただけなのだ。彼は自分を自分の認知の中で、完璧なまま完結させたがるタイプ、だと俺は思った。思ったからこそ声をかけられたときは愛想よく返したし、出会ったその日のうちに腰に手を回されても拒まなかった。
 正直に言うなら彼とのセックスという行為そのものは、残念ながらさっぱり気持ちよくなかった。でも肌を合わせるのは好きだったし、彼が眼鏡を外して俺にキスをするのは格好良かった。それより先も彼がしたがったから二度ほど試したが、俺が口でするからと止めて貰った。 
 そうこうしているうちに、彼はだんだん俺の体を傷つけることを覚えた。
 最初は叩くだけだった。裸になって抱き合って、俺は尻をバチンとかなり激しく叩かれて、その時はさすがに痛ぇ! と声に出して言ってしまった。どうやらその声がお気に召したらしくて、そのときから同じくらいかそれ以上の強さで彼は俺を叩くようになった。
 彼が刃物を持ち出したときに、俺はもっと必死に止めるべきだったんじゃないかと、今ならそういう反省も出来るけど、その時の俺は彼が目の色を変えることにとても興奮していたし、嫌われたくもなかった。
 かと言って俺は、彼の顔色を直接的に窺うような真似の出来るほど、素直ではなかった。でも嫌われるのは勿論嫌だったので、いつしか自分でも無意識のうちに彼の望むことを先読みして、それに合わせるようになっていた。
 薄く肌の表面に傷をつけて、滲んだ血を舐めたりというバカバカしいことをしているうちはまだ良かった。そのナイフの刃が徐々に垂直に近づいていった辺りから、彼は正気を失っていっていたのだ。そこに至って俺はようやく怯え出して、やめて欲しいと彼に切実に訴えた。それがますますいけなくて、ある夜彼はついに俺に薬を盛った。働いてた店に、時々そういう薬を売る輩がうろついてたのは知っていたけど、まさか本気でそんなもん買うバカがいるなんて。
 体に力が入らなくなって、目を開けたまま俺は意識をトばした。最後に見た彼の顔は、口をだらしなく開けて涎を垂らしているものだった。今まで見た中で一番ブサイクだった。
 
 次に目を開けたとき、俺はベッドに寝かされていた。どこかから消毒液のにおいがして、ああ病院なんだなとすぐにわかった。朝だからなのか、室内は妙に明るくて窓が開いていて、風に揺らめくカーテンが見えた。窓辺に置いてあるのは空の花瓶かも。清潔だけど、少し古い病院だ。
 体のどこかが痛い気がしたが、具体的に傷を探るのを俺は意識的に放棄した。胸元が包帯でぐるぐる巻きになっているのは、きっと医者もまだそれを隠しておいた方がいいと思ったからなんじゃなかろうか。
 その医者が、俺のベッドに近づいてきた。靴音をぺたぺたいわせて、初老の医者が。そんなに年に見えなかったが、意識して『おじいさん』の空気を出してるんじゃないかって俺は直感で思った。
「ああ、綺麗な目だね。濁っていないから大丈夫だよ。傷も、命に障りはしない」
「…………」
 後で聞いた話だが、そのおじいさんはいわゆるスペシャリストで、今回の事件で精神的にダメージを負ったであろう俺の為に、外科の医者がわざわざ呼んでくれた人だった。今までも犯罪被害に遭った人を何人も救った、穏やかのプロみたいな人らしかった。それなのに俺は、あろうことかその人の手が俺の顔に近づいただけでこう思ってしまった。
 さわんじゃねえくそじじい。俺にさわるな、さわるな。
 ひどい話だ。元々、俺の取り柄なんて人との接触を怖がらないことと最低限の礼儀を守れることくらいだったのに、それすら出来なくなってしまった。初めて恋人が出来て浮かれすぎた俺への罰なんだろうか。そう思うと、彼の部屋のソファで寄り添ってビールを飲んだあの瞬間は、もう楽園みたいに幸せだったようにしか思えなくなって、その時間だけを思い出しては俺はボロボロ泣いた。まあその直後に、その恋人に刺されたのだと思うとバカバカしい話だけど、バカな俺はその幸せな時間以外に縋るものを見つけられなかった。

 もう二度と俺に恋人なんてものは出来ないのだ、と、諦めた日々を数年過ごした。俺は誰かと寄り添ったり手を繋いだりすることはおろか、半径1メートル以内に入られるのすら嫌になってしまった。そもそも笑顔を作るのが面倒になっていたし、声を出すのも面倒だった。
 面倒、というこの感覚が、狂気の入り口なのだといつか本で読んだことがあった。きっとそれだと思った。友達が多かったはずの俺には、近づいてくる人間が極端に減った。遠ざけたからそれは当然の結果だった。
 そうして治療の為だからと、母親が泣いて止めるのを以前の自分では考えられないくらいの冷酷さで振り切って、行ったこともない海寄りの町で一人暮らしを始めた。一応観光地だが、どちらかと言えば寂れている片田舎だ。
 幸いでも何でもないが、金はあった。彼の親が示談金を積んだからだ。彼の親は資産家ではなかったはずだから、この額を工面するのは相当大変だったと想像に難くない。前の俺なら同情したり変に遠慮してしまったりしただろうが、今はまったくそういう気持ちが湧かなかった。
 彼に対して恨みを抱いているからだろうと、最初は思った。でも何かが違った。それで少し考えてみて、今の俺には感情そのものが湧いてこないのだと気づいた。嬉しいとか悲しいとか楽しいとかが何もかも、まとめて希薄になってしまった。今では、あんなに縋っていた幸せな時間の記憶すら、思い出すのが面倒だった。
 
 だから、彼、サビーが息をするような自然さで俺の懐に入ってきたときは、まるで。
 まるで時間が巻き戻されたようだ、と思った。
 俺はその日ひとりで海辺にいた。ボードウォークからビーチに歩いて、一番人気のない岩場近くの備え付けのデッキチェアに座ってただただボンヤリしていた。この席はこのビーチで一番眺めのよくない場所だから、いつでも空いている。ふたつ並びのデッキチェアはきっとカップルが座ることを想定して作られたものだったのだろうが、今まで俺以外が座っているのを見たことがない。天気のいい週末ならまた話は別なのかも知れないが、俺が海に来るのは大抵、曇り空の平日だからだ。日焼けに強くない方なので、晴れの日に海になんか来るとすぐ肌がヒリヒリしてしまう。今日くらいのうす曇りが丁度いい。
 もっとも、海の側にいたところで気分が晴れるわけでもない。ただ、ぼんやり出来た。この場所にいると『何も考えない』という、出来そうで出来ないことが出来た。他のどこにいても出来ないことが。
「向こうのスタンド、飲み物が他より50セント高いんだね」
 そう言って、突然俺の目の前に現れた男が、昔からの友達みたいな口調でそう言ってきた。
「……しかも水入れてうっすくしてあるんだ。あそこで買うのは観光客か、さもなきゃマヌケだけだ」
 脊椎反射でそう答えてから、俺ははたと我にかえる。
 まるで今のは、以前の俺だ。口先ばっかりくるくる回って、この町に住みだしてまだ半年にもならないのに、自分の縄張りみたいに振る舞う。軽率で明るくて、いつでもふわふわ楽しい気分で生きていたときの俺。
「もっと早く教えてくれなきゃ」
 男はそう言って眉を八の字にして唇を尖らせた。久しぶりに誰かがふざけているのを目の当たりにした気がする。そうした環境を自分から遠ざけていたはずなのに、妙に嬉しかった。
「名前は?」
「……言いたくないんだ。俺も訊かないからそれでいいか?」
「いいよ。じゃあ俺のことはサビーって呼んで」
 人の話を聞いているのかいないのか、本名ではなさそうな名前を名乗って、サビーは俺の隣のデッキチェアにごろりと身を横たえた。立ってるから大きく見えただけかと思ったが、こいつはチェアから足がはみ出してしまうほどには背が高い。歳を訊いたら、俺よりひとつ下だった。
「曇りの日に日光浴するのは、頭いいよ。カンカン照りの中でやるやつはバカだ」
 薄いドリンクをチェアを挟んだテーブルに置いて、サビーは両手を頭の後ろに組んでそう言った。とても人懐っこい奴なのだと直感したけど、今の俺はこの直感が少し怖かった。
 俺の特性というか特技というか、第一印象で受ける直感は良きも悪しきも大体当たる。でもそれを生かせない。直感でヤバい奴は本当にヤバいのに、俺はそこでヤバいから距離を取る、ということが出来なかった。ヤバい奴でもこちらに寄り添って来るなら受け入れるし、逆に好きだと思っても、俺から離れていく奴のことを追えなかった。
 ぼんやりととりとめのないことを考えている間に、サビーがじっとこちらを見ていることに気づいた。
「何か怖いの?」
「……俺?」
 俺は怯えた顔でもしていたんだろうか。想像もしていなかった質問に、つい俺はサビーの顔を見返した。黒目が大きくて小鼻が小さくて、甘ったるい顔をしている。そのくせ、目の奥には心の中を見透かしかねないような、油断のならない光があった。
 サビーは俺の視線を小さく笑っていなしてこう続けた。
「うん。なんか、ちょっとなんて言えばいいのかな。ストロー噛みたそうな顔してるって言うか……上手く言えないけど」
 おかしなことを言う奴だと思うのに、俺はサビーに対して突き放すような言葉を選べないでいた。変な話、傍にいると心地が良かったのだ。 
「まあいいや。また曇りの日にここに来たら会える?」
「ああ、多分な。でもお前、観光客なんだろ?」
「違うよ、間抜けの方なんだ。一昨日この町に越してきたとこ」
 サビーがスマホをいじりながらそう言ったので、てっきり連絡先を訊かれるのだと思ったら、サビーはそのままじゃあ、と言っていなくなってしまった。急に出てきて急にいなくなった男に、俺は何故か全くと言っていいほど悪い印象を抱かなかった。
 翌週の曇りの日に、サビーは本当に同じ場所に姿を現した。来るような気がしていつつ動かなかった俺も俺だが、結局また同じスタンドで飲み物を買ったこいつもこいつだ。
「実は薄味好みなんだ」
 ニコニコと言うよりニヤニヤ、という笑い方はサビーをひどく子供っぽく見せる。服装こそポロシャツにサッカーパンツにサンダルとチャラチャラしているが、それでも人懐っこさが全面に出ているのはもはやこいつの賦質なのだと思う。既に俺はこのとき、サビーにまた会えたことを嬉しく思っていた。
「今日は午後から雨が降るから、向こうの海の見える方も空いてるよ。移動しないの?」
「しない」
 短く答えると、サビーは特に鼻白むでもなく、ふうんと答えてやはり前みたいに俺の隣に腰掛けた。
「雨が降ってきたら?」
「……帰るに決まってるだろ」
「あ、良かった。ここにいなきゃいけない呪いとか、そういうんじゃないんだ」
 変なことを言いながらサビーがヘラヘラ笑うと、緩くウエーブのかかった髪がふわふわと揺れた。
「じゃあ、俺とお昼食べに行かない? 俺いまアッサムラクサって辛いスープのやつにハマってんの」
 こいつにそう言われると、久しく感じていなかった空腹感というやつを感じた気がして、結局俺は海辺に転がるラフなスタイルのままで、サビーと連れ立ってそのエスニックの店に出かけていった。この周辺にある店は海に遊びに来た観光客を当て込んでいるところがほとんどだから、ドレスコードなんていうものはなかった。
「……旨え。何だこれ」
「でしょ、ハマるでしょ! これ入れるともっと旨いよ」
 俺の反応にサビーはやっぱり嬉しそうに笑って、テーブルの端に置いてあったチリの器を俺の前に移動させた。魚と唐辛子のスープ麺は目が覚めるほどに辛かったけど、率直に旨かった。それより何より、俺はこうして誰かと一緒に楽しく食事をすることが出来るようになったんだと思うと、妙に胸が熱くなった。そしたら胸だけでなく何だか目頭まで熱くなってきてしまって、俺は派手なオレンジ色のプラスチックの長箸を慌てて動かし、瓶のビールを喉に流し込んで誤魔化した。
 食べながら、俺とサビーは町の話で盛り上がった。サビーは俺の住んでいたところの隣の地区の出身だった。最終的には今いるここの町が思ってたよりずっと田舎で驚いた、という話を小声で言い合って、腹を抱えて笑ったりした。
「なんか、ちゃんと食べたりするんだなって思ったら安心した」
 店を出て歩いているときにサビーがそう言って、それから少し甘えた声を出した。
「そろそろ名前訊いちゃだめ?」
 別に、名前を隠すことになんか何の意味もない。ただ、今の俺にはそれはまるでお守りのようなことになっていた。サビーを疑うわけじゃない。でも、俺はこいつの名前を知っているけどこいつは知らない、というその状態が安心出来た。結局のところ俺はまだ他人を怖がっている。サビーがいい奴だってわかっているくせに怖がるなんて。そう思うと一気に情けない気分になった。
「……お前が適当に、呼びたい名前で呼べば? それで用事は足りるだろ」
 それならそれで、と思って提案してみた。こいつが何か新しい名前をくれるなら、俺はそれで生きていける気がした。そんなに大袈裟なことでなくていい。あだ名でもいい。デッキチェアくんとか適当な、そんなのでいいんだ。
 でも。
「うん、せっかくだから、もうちょっと待つよ」
 サビーはのんびりとそう言った。言われてみれば、俺とサビーは連絡先を交換してるわけじゃないから、名前なんかなくても困らない。俺とサビーの関係は、海辺で会ってふたりで話す。それだけだから。
 サビーが知りたいのは俺の本当の名前であって、便宜上の呼称じゃなかった。
 一方で『名前がないと不便』だと思い込んでいた俺は、なんだか急に肩が軽くなった気すらした。
「じゃあ、俺そろそろ。今日は一緒に食事出来て嬉しかった」
「ああ、うん、俺も」
 嘘でなく、本当に俺は嬉しかった。サビーの言うのとすこしニュアンスが違ってるかも知れないけど、でも、本当に感謝してる。
「お前のおかげで、楽しかったよ」
 率直にそう言ったら、サビーはいつもの人懐っこい顔で嬉しそうに笑った。
「また曇りの日に、デッキチェアでね」
 俺とサビーの、いつ絶えてもおかしくないそのつき合いは奇跡的に七ヶ月を過ぎても続いていて、その頃になると段々海辺のデッキチェアは冷えるようになっていた。俺はそれでもブランケットを持参して凌いでいたけど、いよいよ雪の季節が近付くとなると、限界な気がしていた。
 別に、そこでしかサビーと会っちゃいけないわけじゃない。その後もよく一緒に昼を食ったし、たまに夜まで一緒にいたりもした。と言っても別にそういう意味ではなくて、単に昼飯も夜飯もサビーと一緒に食った、というだけの話だけど。
「今日、おれんち来ない?」
 俺が気温の話を切り出すよりも先に、サビーがそう言った。
「お前んち?」
「そう。俺んち、厭?」
「厭もなにも……行ったこと、ねえし」
「じゃ行こう。厭だったらすぐ帰ってもいいから!」
 妙に勢い込んでサビーがそう言うので、俺はいいよと短い返事をして、一緒に初めて乗る路線のバスに乗った。サビーの家は俺が思っていたよりも海から離れていた。仕事とか何かついでがあるのだろうけど、この距離をわざわざ移動して俺に会いに来てると思えば、何とも健気ではある。
 大きな古い一軒家で、よく手入れされたその家からはサビーと同じ匂いがして、更に驚いたのは、俺はこの家では海辺で出来たように、ぼんやりすることが出来た。昔住んでいた家で、今はもう使っていないのでサビーがひとりで勝手に住んでいるとのことで、もしかしたらサビーの家は裕福なのかも知れないが、言及しなかった。
 いつも海辺でするように、俺たちはダラダラと過ごした。デリバリーのピザをとったら酷い味だったけど、それでも楽しかった。
「あのさあ」
 庭の見えるリビングで、別々のソファに座って寛いでいたら、サビーがいつものニヤニヤ顔になって、自分の膝を叩きながらこう言った。
「俺の膝の上に座るか、名前を教えるかだったら、どっち?」
 目をきらきらさせている男に吠え面をかかせてやろうと、俺はソファから腰を浮かすと遠慮なくサビーの膝の上にどっかりと座ってやった。俺は元々が肉付きの薄い方だがこの半年で痩せっぽっちと言われても仕方のないレベルで痩せたから、ケツの骨が刺さって痛いはずだ。ところがサビーが発した声は俺が期待していたような悲鳴ではなくて、でも腹の底から出した歓声だった。
「あーもう、やっとここまで来てくれたー!」
 ひし、とサビーの長い腕が俺を抱き締めた。その瞬間、俺の中に泣きそうな安堵感が流れ込んできた。どうしてこいつはこんなに、俺を安心させるのが上手いんだろう。こいつの何が俺を安心させるんだろう。
 サビーはしばらくあーあ、あーあと子供みたいに大声を出しながら俺のことを抱きしめっぱなしていたけど、ふと腕の力を緩めると、小首を傾げるみたいにして俺の顔を覗き込んできた。
「ちっとも心開いてくんないからさぁ」
「ひ、人のこと野良猫みたいに……つか、苦しい」
「でも、俺のことは好きでしょ?」
「どっから来る自信だよ」
「だって俺が君のこと好きなのはずっと知ってたでしょ?」
「……」
 知ってた、というのも烏滸がましいのだが、他に言いようがない。俺がこいつから感じていたのは純然たる好意だけだ。
「大変なんだよ、心開いてない相手に片想いするのって。こんなに好きなのに名前も呼ばせて貰えないんだから」
 反論しようとした俺の口は、サビーに塞がれた。柔らかい唇の感触がして、やっぱり安心した俺は目を閉じた。サビーは少し顔を傾けて、唇を啄むような優しいキスを繰り返した。その感触に浮かされて俺は俺の方からも角度を変えて、気がついたら必死に舌を絡めていた。
 熱の籠もった吐息を洩らしながら、サビーは勝ち誇ったように言った。
「好きじゃない奴とこんなキスする? しないよ。絶対しないでしょ」
「……うるせえよ」
「可愛い」
 そう言ってサビーが俺の背中に手を回して、苦しいほどのハグをした。悔しくなった俺は身長的にいい位置にあるサビーの胸元に腕を回して、苦しい苦しい、と音をあげるまでハグ仕返してやった。
 サビーの家のソファに向かい合って座って、俺はとても幸せな気分になっていた。
「ねえ、本当は海が好きなわけじゃないんでしょう?」
「全然。本当は湖とかがいい。潮風はだるくなるから」
「それなら、寒くなってきたらうちの別荘行かない? 山の方にあるからスキーが出来るし氷に穴開けて釣りも出来るよ。ボロいけどね」
 ああきっと、こいつといれば俺の時間は巻き戻る。軽率で明るくて、いつでもふわふわ楽しい気分で生きていたときの俺。そんな俺の名前を教えても、こいつは俺を好きでいてくれるだろうか。
 

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